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1937年・中原中也・李箱
久しぶりに長〜い日記です。それも、な・なんと日韓ふたりの詩人についてです。
月桃さんどうしちゃったの? いやどうもしてないですが、このテーマで書きたくなった、それだけなのです。若い時から詩が好きだったおっさんが久しぶりに詩と向き合ってみた、ってところかな。長いですけど、できたら最後まで読んでくださいね。

中原中也のことはほとんどの方が知っていると思いますが、日本の植民地下の朝鮮京城(現ソウル)に住み、晩年の1年間を東京に住んだ詩人・李箱を知っている方は少ないでしょう。
このところ読んでいた本に作品社から2006年に出た『李箱作品集成』という本があります。韓国の詩や小説に少しでも関心のある方なら(限りなくゼロに近いと思いますが)李箱の名前くらいは聞いたことがあるかも知れません。李箱と書いてイ・サンと読みます。異常と理想というふたつの言葉も同じイサンと音読みができるのでそれらをかけてペンネームとしたとも言われています。一読、とにかく鋭利な感性と研ぎ澄まされた文体を持つ韓国の詩人・小説家です。1910年にソウルで生まれ1937年に東京で死んでいます。たった26年の生涯のおわりの1年、宗主国日本の首都に住み、奇体な風貌をしているという理由で不逞朝鮮人として獄につながれ、持病の結核の悪化を理由に保釈されその後すぐ非望の死を遂げました。
この年1937年は詩人・中原中也が30才で死んだ年でもあります。2007年という年は中也生誕100年死後70年、李箱生誕97年死後70年という年にも当たります。

ボクがなぜこのふたりのことを並べて書いてみたいと思ったのか、ただ一方が日本近代詩の代表的な詩人、他方は韓国人なら誰でも知っている詩人、そのふたりが1937年という同じ年に中也は鎌倉、李箱は東京で死んでいるという事実に引っかかたに過ぎません。そこに横たわる現代史の悲劇的な相貌をここで復習したいとも喚起させたいとも思いませんし、大体歴史について語るのはあまり得意ではなく、とくに日韓の歴史認識の問題については双方のナショナリズムにはまったく就いていけないというのが中途半端な「僕ってなに?」的思考なわけです。
6月の中旬、京都で個展を開いていたので、戦前の京都同志社に留学していたふたりの詩人、尹東柱と鄭芝溶の詩と死のことなどにも思いを巡らしていたということもあり、つらつらと書いてみたいなと思った次第です。

中原中也は高校2年のときに筑摩書房版・現代国語の教科書に載っていた詩を読んで以来虜になってしまい、角川の旧版全集も購入、特集された雑誌もほぼ読んでいます。大岡昇平の書いた2冊の評伝も繰り返し読んで来ました。言ってみれば青春時代、ボクのポケットの中の詩集は中原中也詩集でした。朝の歌、春日狂想、サーカスの歌、冬の長門峡、臨終、曇天、正午、朝鮮女・・・口をついて出る詩はいくつもあります。
中原中也は詩人という存在の典型的なイメージを今に遺した代表的な詩人でしょう。あるいは立原道造や金子光晴の名前をあげていいかも知れませんね。ちなみに立原道造は翌1938年24才の若さで李箱と同じく結核で死に、金子光晴の初期の代表作『鮫』は1937年に刊行されています。
この時代、日本は226事件、南京陥落を機に急速に軍国化して行くころです。ヨーロッパではスペインの人民戦線が結成され内線の危機の渦中にありました。ドイツでユダヤ人迫害の「水晶の夜」事件が起きたのが1938年、ナチスの台頭と日本の軍国化は軸をひとつにして世界に暗雲をたれ込めさせようとしています。アメリカはまだ大恐慌の疲弊の渦中にあります。それは第二次世界大戦が終わるわずか7〜8年前のことです。それと私事に関わることで言えば、ボクのおやじは17才。ほとんど日本語も喋れないまま単身朝鮮の片田舎から下関経由で東京中野にたどり着く1年ほど前のことです。そして、かく言う私が生まれるわずか13年前のことです。いまから13年前といえば1994年。僕の処女作『桃の子供』が刊行された年です。実際の歳月と記憶の歳月が混淆されれば手に取れるほどつい最近のことのように思えます。
そんな時代にあって、詩人はどんな仕事をしていたのか。

李箱が日本語で書いた詩は『作品集成』のなかに収録されていますが、本当にすぐれた詩は朝鮮語で書かれたものにあると思います。金素雲の素晴らしい翻訳になる『朝鮮詩集』(岩波文庫)のなかに李箱の詩が4編収められています。
中也の詩はすぐに読むことができるでしょうが、李箱の詩はなかなか読む機会がないと思います。ちょっと読んでみてください。

  鳥瞰図(原題は烏瞰図)

  十三人ノ子供ガ道路ヲ疾走スル
  (路ハ行止マリノ袋小路ガ適當デアル)

  第一ノ子供ガ 怖イト サウイフ
  第二ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第三ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第四ノ子供モ 怖イト サウイウ
  第五ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第六ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第七ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第八ノ子供モ 怖イト サウイウ
  第九ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第十ノ子供モ 怖イト サウイフ

  第十一ノ子供モ怖イト サウイウ
  第十二ノ子供モ 怖イト サウイフ
  第十三ノ子供ハ 怖イ子供ト 怖ガル子供ト ソレダケ
   デアル。(他ノ事情ハナイ方ガ 寧ロヨロシイ。)

  ソノ中ノ一人ノ子供ガ 怖イコドモデアツテモヨイ。
  ソノ中ノ二人ノ子供ガ 怖イコドモデアツテモヨイ。
  ソノ中ノ二人ノ子供ガ 怖ガルコドモデアツテモヨイ。
  ソノ中ノ一人ノ子供ガ 怖ガルドモデアツテモヨイ。

  (路ハ 抜ケ道デモ カマハナイ。)
  十三人ノ子供ガ 道路ヲ疾走シナクテモカマハナイ。

この詩は1934年に朝鮮京城の朝鮮中央日報に連載詩として発表された最初のもの。連載途中で読者と文壇の抗議で中断されたそうです。(当たり前かも)
しかしそれでも、植民地下の朝鮮の朝鮮語の新聞にこんなにシュールな詩が掲載されたということに驚きを禁じ得ません。この詩が掲載されたのが1934年7月28日号だったそうですが、夏の韓国の暑さ空の高さを知っている方には分かって頂けると思います。白い民族服を着てパナマ帽みたいな帽子をかぶった朝鮮の男たちが木陰の縁台に坐って煙草を燻らせ、眉をしかめながら「鳥瞰図」を読んでいる図というのはなんか麗しく切なく胸に迫るものがあります。
李箱は難解な詩を書く異常な天才みたいな言い方をされることが多いのですが、こんな詩を書いて大部数の日刊紙に載せる事自体でやはりちょっと異常天才かも知れませんね。
詩の読み・解釈はおまかせするしかありませんが、日本のモダニスム、シュルレアリスム系の詩人でもこんなに鮮烈なイメージの詩を書いた詩人はいないと思います。李箱も読んでいたという瀧口修造の初期の詩には近いものがあるかもしれません。

  十三人ノ子供ガ道路ヲ疾走スル
  (路ハ行止マリノ袋小路ガ適當デアル)

  (路ハ 抜ケ道デモ カマハナイ。)
  十三人ノ子供ガ 道路ヲ疾走シナクテモカマハナイ。

最初の行と最後の行です。そのあいだにはずっと「怖イトイフ子供と怖イ子供と怖ガル子供」がいるだけです。はは、面白い!でも、すこし不気味ですね。
この詩を植民地下の詩人の孤独と不安な心情のあらわれと読むことも可能でしょうが、23才の才気が日本や朝鮮だけでなく、既にダダイズムやシュルレアリスムの洗礼を受けているグローバルな詩の世界に鋭い匕首を突きつけたのではないかと思ったりもします。

この詩が書かれた1934年、中原中也はどんな詩を書いていたのでしょう。
中也の最初の詩集『山羊の歌』は1934年に刊行されていますが、収録された詩はすべて1933年以前に書かれたものです。没後の1938年に刊行された『在りし日の歌』のなかから1934年に書かれた「骨」というよく知られた詩を引用しておきます。

  「骨」

  ホラホラ、これが僕の骨だ、
  生きてゐた時の苦労にみちた
  あのけがらはしい肉を破って、
  しらじらと雨に洗はれ
  ヌックと出た、骨の尖。

  それは光澤もない、
  ただいたづらにしらじらと、
  雨を呼吸する、
  風に吹かれる、
  幾分空を呼吸する。

  生きてゐた時に、
  これが食堂の雑踏の中に、
  坐ってゐたこともある、
  みつばのおしたしを食ったこともある、
  と思へばなんとも可笑しい。

  ホラホラ、これが僕の骨──
  見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の處にやって来て、
  見ているのかしら?

  故郷の小川のへりに
  半ば枯れた草に立って
  見ているのは、──僕?
  恰度立札ほどの高さに、
  骨はしらじらととんがってゐる。

四半世紀ぶりでしみじみと読んでみたけど、いい詩だなあ、と思います。
中也はすでに27才、同じ年には「汚れっちまった悲しみに」を発表、ランボーの詩や書簡をさかんに訳出し、長男文也もこの年に生まれました。
詩の好きな若者なら必ずこころの中で唱和したことのあるフレーズ、「ホラホラ、これが僕の骨──」死への畏れと憧れなのか、あるいは人間存在の卑小さへの韜晦か、いやいや不思議なことにここにあるのは、いつのことかはわからない自分の死へのあらかじめ用意された郷愁のような気がします。中原中也の詩にはそんな感じの詩が多いのでは、と思います。
そこらへん、朝鮮の詩人・李箱(イサン)も似たような感慨をいだかせるのです──なんか批評家ぽい言い方になってきたかな、そんなのムリですが。

李箱が東京に来てから書いた作品はいくつかあるが、ここに引用する「終生記」は李箱が死の直前に朝鮮の「朝光」という雑誌に投稿したものです。26才にして死期を悟ったような李箱自身がある少女への異様な愛と死への省察を語る短編小説です。李箱の文体の妖しい魅力が溢れているこの作品のなかから最後の十数行を引用させてもらいます。

 しかし今私は、この天にも徹する怨恨からそっと立ち退きたい。かつての平穏な日々が恋しくなった。
 すなわち私は死体である。死体は生存していらっしゃる万物の霊長に向かって嫉妬する資格も能力もないのだということを私は悟る。
 貞姫、ときには貞姫の温かな吐息が私の墓碑にそっと触れるかもしれない。そんなとき、私の死体は人参のようにかっと火照りながら、九天を貫かんばかりに慟哭する。
 その間に貞姫は何回か私の(私の垢の付いた)蒲団を燦爛たる日光のもとに干しただろう。延々と続くこの私の昏睡のために、どうかこの私の死体からも生前の悲しい記憶が蒼穹高くふわふわと飛んでいってしまえば──
 
 私は今こんな惨めな考えもする。それでは──
 ──満二十六歳と三ヶ月を迎える李箱先生よ!傀儡よ!
 君は老翁だよ。膝が耳を超える骸骨だよ。いや、いや。
 君は君の遠い祖先だよ。  以上
                 
                十一月二十日 東京にて
                     (崔真碵 訳)


1936年11月20日に東京で書かれたこの作品は翌年4月に死んだ李箱の遺作のひとつとして「朝光」という雑誌に掲載されました。東京から京城の雑誌社に投稿されたようですが、当時、内地日本から植民地朝鮮までの郵便はどのルートを辿ったのでしょう。京城宛ての郵便物と釜山宛ての郵便物は同じ船便で運ばれたのだろうか。そんなことにも感慨が及びます。

 ──満二十六歳と三ヶ月を迎える李箱先生よ!傀儡よ!
 君は老翁だよ。膝が耳を超える骸骨だよ。いや、いや。
 君は君の遠い祖先だよ。  
                   
中也の「骨」との類縁を言うのは牽強付会かも知れませんが、僕のなかではふたりはかなり近くに住んでいるのです。
実際はどうだったのだろう?朝鮮の詩人たちが少数とはいえ日本の詩壇に迎え入れられていたことは、北原白秋が寵愛した金素雲、鄭芝溶ふたりの例を見れば理解できることです。中原中也の文章のなかから朝鮮の詩人たちとの交友を窺い知ることはできませんが、李箱が中也を読んでいたことは確かなことだと思います。銀座や神保町の路地裏のカフェでふたりが視線を交わしたことくらいはあるんじゃないかな、と思います。

1935年に中也が書いた「朝鮮女」という詩です。

  朝鮮女の服の紐
  秋の風にや縒られけん
  街道を往くをりをりは
  子供の手をば無理に引き
  額顰めし汝が面ぞ
  肌赤銅の干物にて
  なにを思へるその顔ぞ
  ──まことやわれもうらぶれし
  こころに呆けて見ゐたりけむ
  われを打ち見ていぶかりて
  子供うながし去りゆけり……
  軽く立ちたる埃かも
  何をかわれに思へとや
  軽く立ちたる埃かも
  何をかわれに思へとや……
  ・・・・・・・・・・・

この詩はどう読めばいいのだろう。
貧しい朝鮮の女がチョゴリを着て幼子の手を引いて歩いている。額には労苦のあとが認められ肌は日に焼けて干物のようだ。そんな朝鮮女が中也の姿に一瞥を放って一瞬の交情?が成立する。短身痩躯の貧相な詩人、眼光ばかりが鋭い中也を一瞥して去った女のあとに軽く埃がたっていた・・・・「まことやわれもうらぶれし……何をかわれに思へとや……」
中也が見た朝鮮女のうしろに東京で死んだ李箱の亡霊を見てしまっては、詩の読み方としては落第かな、でも……。

ずいぶん長くなって来ました。論文書いてるわけじゃないし、最後まで読んでくれるのはたぶん数人だけなんだけど、ああ、オレってやっぱり詩が好きだったんだと再認識しつつ、もう少しだけ。

1937年2月李箱は東京で不逞鮮人として警察に検挙され思想犯の嫌疑でほぼ1ヶ月留置されるが、持病の結核の悪化のため保釈、帝大付属病院に入院、4月17日逝去。享年26歳。
中原中也は36年11月に最愛の長男文也を失い、次第に精神の平衡を維持し難くなり、37年1月には千葉の寺の療養所に入院。2月退院後には鎌倉に住居を移すが11月22日結核性脳膜炎にで逝去。享年30歳。

李箱の没後、1943に日本で刊行された金素雲訳『朝鮮詩集』に掲載された「蜻蛉」という詩を引用します。執筆年は未詳。

「蜻蛉」

 触れば手の先につきさうな紅い鳳仙花
 ひらひらと今にも舞ひ出そうな白い鳳仙花
 もう心持ち南を向いてゐる忠義一遍の向日葵
 この花で飾られてゐるといふゴッホの墓は どんなに美しいで   しょうか。

 山は晝日中眺めても
 時雨れて 濡れて見えます。

 ポプラは村の指標のやうに
 少しの風にもあのすっきりした長身を
 抛物線に曲げながら 真空のやうに澄んだ空気の中で
 遠景を縮小してゐます。

 身も羽も軽々と蜻蛉が飛んでゐます
 あれはほんたうに飛んでゐるのでせうか
 あれは真空の中でも飛べさうです
 誰かゐて 眼に見えない糸で操ってゐるのではないでせうか。

最後に中原中也が1936年に書いた「蜻蛉に寄す」という詩を。

 「蜻蛉に寄す」

  あんまり晴れてる 秋の空
  赤い蜻蛉が 飛んでゐる
  淡い夕陽を 浴びながら
  僕は野原に  立ってゐる

  遠くに工場の 煙突が
  夕陽にかすんで みえてゐる
  大きな溜息 一つついて
  僕は蹲んで 石を拾ふ

  その石くれの 冷たさが
  漸く手中で ぬくもると
  僕は放して 今度は草を 
  夕陽を浴びてる 草を抜く

  抜かれた草は 土の上で
  ほのかほのかに 萎えてゆく
  遠くに工場の 煙突は 
  夕陽に霞んで みえてゐる

かなり長い日記になってしまいました。
テーマがテーマだけに、内容は無いようだけど、じっくり書きたかったのであります。
李箱の文章、とくに散文は『李箱作品集成』で多くを読むことができます。興味出ちゃったという方は下記のHP海外文学を参照してくださいませ。
https://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/index.html

ちなみに金素雲訳『朝鮮詩集』は岩波文庫版が今でも入手可能です。

まだまだ書き足りない感が大ですが、人様のご迷惑を考えて今日のところは勘弁してあげます、ってアホ〜ン!





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by kuukuu_minami | 2007-06-29 22:05