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『絵本の子どもたち』
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絵本の子どもたち

水声社から『絵本の子どもたち 14人の絵本作家の世界』という本が刊行されました。著者は寺村摩耶子さん。

この本を紹介するのはちょっと気後れする部分もあります、というのも
この14人のなかにワタクシこと南椌椌も入っているからです。
片山健、長新太、スズキコージ、井上洋介、宇野亜喜良、荒井良二、木葉井悦子・・・とまさに現代の絵本世界を代表する作家たちのなかに加えていただいたのは嬉しい限りなのですが、絵本作家というには余りに作品も少ないし、日頃絵本のことをほとんど忘れて遊んでいる身でありますので・・・ちょっと気恥ずかしいのが本音なんです。でも寺村摩耶子さん、ありがとう!これからちゃんと頑張ります!

13人の作家たちの多くの方々は実際に面識があり、とくにスズキコージ、荒井良二、沢田としき(つい最近亡くなりました)は親しい友人であり、何度となく飲んで遊んだものです。片山健さんは古くからお付き合いさせていただいている敬愛する絵描きさんです。吉祥寺でKuuKuuを経営していた頃には井上洋介さん、たむらしげるさん、宇野亜喜良さん、飯野和好さん、酒井駒子さんとも何度もお会いしたことがあります。亡くなった長新太さん木葉井悦子さんは作品、お人柄ともに大好きな作家でした。谷川晃一さん、島田ゆかさんは作品を通してのみ知る作家です。

ここで寺村さんが書いた14人の作家論すべてについて紹介することもできませんが、いくつかの素敵なフレーズを引用しながらこの本の魅力の一端でも伝えられらたら嬉しいです。

絵本作家論というのは殆ど読んだことがないので、比較はできませんが、『絵本の子どもたち』は絵本作家論という限定をつけないでも極めて魅力的な評論集だと思います。

それは、寺村摩耶子さんのアートに対する柔軟かつ広範な感受性と、愛情ある繊細な文章力によるものだと思います。
各作家の初期の作品から最近の作品まで通底するそれぞれの作家性をやんわりと押さえながら個々の作品の魅力について語る語り口はとても清々しいものがあります。それは彼女が本当に絵本が好きで、絵本によっていかに慰められているかという個人的事情がまず存在するからでしょう。

僕も読んだことのある多くの絵本が語られますが、しばしば「おお、そうなんだよね!」と膝をたたいて頷くことがありました。

日本の絵本の世界でだれもがまず思い浮かべる作家は長新太さんではないかと思いますが、寺村さんの長新太論はとても新鮮かつ深い読みによって、一見ナンセンスなユーモアにあふれた長新太さんの絵本の世界の深部を照射してくれます。

1993年だったと思いますが、僕は一度だけ長新太さんのお宅を訪ねたことがありました。トムズボックスの土井章史さんといっしょでした。
長さんのアトリエは居間と兼用だったような記憶がありますが確かではありません。ただ、大きな作業机の後ろの本棚がとても魅力的な風情だったのをよく覚えています。どんな本が並んでいたのか、じっと眺めたわけではありませんが、本好きには本棚の醸し出す風情だけでなんとなくその書棚の持ち主の趣向がわかるものなんです。その時感じたのは、長さんの読書の趣味がとても洗練されていて新しい文学や芸術の思潮にも柔軟な思考をお持ちのようだな、ということでした。たしか永井荷風の『断腸亭日乗』全集が左上の棚に並んでいたと思うのですが、それからして「さすが長さん!」と思わずにはいられませんでした。それからアメリカの現代美術の作家たち、ニューペインティング系の画集もさりげなく置かれていたように思います。

なぜこんなことを書くかといえば、寺村摩耶子さんの長さんについての記述を読んでいると、もう17年も前の長さんのお部屋の本棚の風景があざやかに甦ってくるからなんです。

寺村さんは長新太さんの絵本の魅力を、たとえばアメリカの現代美術の作家、マーク・ロスコ、フランスのシュール・レアリスト、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、種村季弘などを挙げながら解き明かしてゆきます。

2002年に寺村さんが長さんにインタビューした時のことが語られていますが、そこで長さんは絵本に頻出する「地平線」のことをこう語ったそうです。
「そういうところが生理的に好きだから。制作するときに自分の好きなものだけをやるという意識があってね。だから水平線を描いたり、地平線を描いたり。いつも、そこからじゃないと出てこない・・・」

そして後段、引用している種村季弘のナンセンス論の一節は
「子供、詩人、狂人、原始人に通有の、この方向(センス)の倒錯こそはナンセンスの基本的な構造なのである。個人的な体験に照らすには幼年時の追憶に頼るがいい。狂人にも詩人にもならなかったにしても、だれしも一度は、あの方向(センス)の無秩序が支配した子供部屋だけは通ってきただろうからである」種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』

これに続けて寺村さんはこう結んでいます。
「生理的な心地よさ」をたいせつにしながら、あたかも目に見えない深い土の下をどんどん掘り進むことによって、長新太は「子どもの王国」をゆたかにひろげてきた。子どもと大人を超えた「土中」における「宇宙」のごとく、そこには底知れぬ世界がひろがっている。

長新太という作家の本質を見事に言い当てていることがわかると思います。

長さんばかりではなく、14人の作家それぞれに対する評言のたしかさ、愛の深さ?にはしばしば驚かされました。

引用が長くなりますが、何人かの作家についての寺村さんらしい文章を引用しておきます。実際の絵本を手にとってみないとわかりにくいかも知れませんが、寺村摩耶子という絵本の読み手から手渡される愛情あふれるメッセージとして読んでいただければと思います。


「そうだ、これこそは真の子どもの姿だった。積み木の山を破壊する子ども。土でも石でも何でもおかまいなしに口の中へ入れてしまう子ども。本能のおもむくままに行動する、自然そのものの純粋な子ども。(中略)『どんどん どんどん』に描かれているのは、そんな子どもという生き物の爆発するようなよろこびである。破壊と創造を同時にやってのける、小さな神のような子ども。「あるひ」はじめて歩きはじめた子どもの生の衝動をとおして、片山健は、原初の生命のよろこびを、水や土、風、火の混沌と一体になった世界のはじまりのなかに描きだしたのだった。」(「片山健 やってきた子ども」より)

「横判の表紙に敷かれた白い線路は、見返しを通って、絵本一冊まるごと横断し、裏表紙からまた表紙へと永遠につづいている。(中略)「ガガガガ ガッタン ガッタン」「ゴットン ゴットン ガッタン ガッタン」・・・・ことばはいっさいなく、きこえてくるのはただ心地よくゆれる列車のひびきばかり。小さな駅にとまるたび、車両はすこしずつのびて、仲間もふえてゆく。一方、旅はいよいよ峠にさしかかり、赤や緑の山肌がみえるおそろしい道、火山口から白いけむりがのぼる、この世の果てのような荒野を通りすぎても、乗客たちはうっとり列車にゆられている。もはやことばをかわす必要のないほどみちたりているかのように、国境も標識も、此岸と彼岸の境界もなく、あらゆる生き物たちの種も、時と場所も超えた世界、ことばが生まれる前の、はるか昔、私たちがそこからやってきた、なつかしい世界への旅。(「スズキコージ 大千世界の魔法画家」より)

「『たいようオルガン』のサイン会のとき、小学三年生くらいの男の子が絵本を指さして、「下書きの線は消した方がいいよ」と言ったという。それを聞いて、心のなかで喝采をあげたという荒井良二。それは察するに、作家のなかの子どもがついに現実の子どもに勝った(?)ことを、ほかならぬ現役の子どもに認められたということか。たしかに、「子どもが描いた絵」と「子どもが描いたようにみえる絵」はよく似ている。だが、あえてそのふたつを比べてみるならば、子どもの絵は、無意識そのものであるがゆえに美しい。そして、「子どもが描いたような絵」は、大人のなかのアートの衝動がひとつになっているからこそ美しい。(中略)「宿敵は大人の自分」と言い、「かつて自分も子どものころに持っていた、絵を描く前の、気持ちの高まりのようなもの」「子どもの衝動」をもって描きたいとう画家。「自分がよろこぶもの、自分にとって新しいと思うものを描く」という荒井良二にとっても、内なる子どもこそは生命の源泉であるにちがいない。(「荒井良二 日常の旅人」より)

「山羊のいのち。人間のいのち。地球のいのち。食べ物のいのち・・・・。これまでもさまざまな「いのち」の物語を描いてきた沢田としきの絵本のなかでも、『ピリカ、おかあさんへの旅』は、もっともドラマティックな作品である。主人公はピリカという一匹のサケの女の子。川で生まれたサケが海に下って大きくなり、ふたたび生まれた川に遡上して産卵したのち一生を終えて死ぬというサケの一生が、ピリカのまなざしで描かれていく。海で暮らしていた彼女が、あるとき自分が生まれたばかりの時のことを夢に見て「おかあさん」の存在を思い出し、やがて遠いどこかからきこえてくる「よびごえ」にむかって泳ぎだす。群れをなして進んでいくピリカたちに迫る、さまざまな危険。恐怖とのたたかい。そして海の果てにようやくたどりついた「なつかしい匂いのする水」。そこからさらにはじまる、とほうもない旅。(中略)ページをめくりながら、ピリカとともに私たちは水のなかを旅する。川から海へ、そしてまた川へ。それは地球をめぐる生命の神秘を体感することにもひとしい。(「沢田としき リアルであること」より)

★沢田としきは2010年4月27日、一年に及ぶきびしい闘病を終えて、さらに大きな生命のふところ、「とほうもない旅」へと旅立って行きました。亡くなるふつか前に病院に見舞ったとき寺村さんの『絵本の子どもたち』がベッドから見える棚に置いてあるのが眼にはいりました。沢田としきにとっては嬉しい手向けの一冊になったのだろうと思います。

「内なる呼び声につき動かされるまま、ひたすら手を動かすという、その過程こそが重要であり必要であったかのような「内奥への旅」、無意識の世界への冒険。まるで、その行為をとおして、主観から客観へとひらかれていくシュルレアリスムの「オートマティスム」を思わせる体験。木葉井悦子が心を寄せていたという、唯識系仏教の仏典では阿羅耶識と呼ばれる、無意識の底の底、みずからの<内的宇宙>ともいうべき底知れぬひろがり。動物と植物と鉱物の差異も、生と死の境界ももはや存在しない、もうひとつの宇宙。そのようなひろがりにむかって、木葉井悦子ははてしない旅をつづけた。
 この危険と魅惑にみちた旅から帰ってきたとき、あたかも宇宙の胎内をくぐりぬけたかのように、画家のからだのなかから、何かがポンと飛び出したのかもしれない。彼女自身の宇宙から生まれた卵のようなものが。(「木葉井悦子 生命の祝祭」より)

★木葉井さんが病に倒れ入院しているときのこと、病院から電話がかかり、「ねえ、絵の道具、少しでいいから揃えて持って来てくれない?」と頼まれました。
画材店で岩絵の具やスケッチブック、絵筆などを揃えて埼玉・戸田の病室まで持って行きました。手術のあとの再入院でずいぶん痩せておられましたが、「絵の具がないとさびしくてね」と言いながらベッドの上に画材を並べてじっと眺めていました。その場で何かを描いたわけではありませんが、かなり長いあいだ画材を手にしたりじっと眺めたりしておりました。そのうち、「もう夕方ね、遅くなるから帰っていいわよ、私はもう少し絵の具を見ていたいの・・・」と言って僕を送ってくれました。それが木葉井さんとのお別れになってしまいましたが、最後にベッドの上の画材をじっと見ているだけで慰められているかのような木葉井さんに深く感動したのを覚えています。
寺村さんが書いているとおり、「内なる呼び声につき動かされるまま、ひたすら手を動かすという、その過程こそが重要であり必要であった」のだと思います。

さて、長くなりましたがあとはぜひ実際に手にとってお読みください。絵本というジャンルがいかに深い魅力に富んでいるかおわかりいただけると思います。
そして、ワタクシこと南椌椌に対してもすこしは敬意の感情というものを持っていただけるのでないでしょうか?(現実はそんなに甘くない?はっ、そうでした、がんばります)

この『絵本の子どもたち』全体を通して言えることは、寺村さんの瑞々しい詩的な感受性によって絵本というジャンルがこれまでなかったような新しい光に照らし出されたということだと思います。
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by kuukuu_minami | 2010-05-16 22:55
ソウルで個展だよ!
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かれこれ6年ぶりにソウルで個展です。

5月19日から28日まで
仁寺洞(インサドン)のクラフト・アウォンというスペースです。
地下鉄・安国(アングッ)駅から仁寺洞に入ってちょっと
金属工芸とアクセサリーの阿園工房(アウォンコンバン)の向かいの2階

といっても誰もわかりませんよね

ソウルで一番の仲良し姉妹がやっている
オシャレな会場です

今回はいつものガラス絵とテラコッタのほかに
写真のように
けっこうシブイ陶器の酒器セットも展示します

これで日本酒呑むといけます、ホント!

そのうち東京でもやりますんで
どうぞよろしう!

momo no hito_복숭아 사람
남상길 작은 개인전 2010년 5월19일(수)-28일(금) 11:00-19:00
인사동 크라프트 아원(쌈지길 맞은편 건물2층) Tel. 02-738-3482

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by kuukuu_minami | 2010-05-15 12:51