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ダラムサラの空想料理店  その3
ある日のルンタ・レストラン

ルンタ・レストランの直子さんとソナムの娘さん、チュニがテラスで自転車に乗っています。後ろの山には梨の花が美しく咲いています・・・。
ダラムサラは坂道だらけでしかも石がごろごろの凸凹道なので、ボクが滞在中自転車を見たのはルンタのテラスだけでした。もしかしたらダラムサラで唯一の自転車かも知れません。
チュニはきれいでしょ!それにチュニが着ているTシャツはナント月桃先生の象さんTシャツです、なんという偶然、世の中こんなことがあるんですね??

中の写真はレストランでいちゃつく問題のカップルです。天然パーマのチベタンはツェリンといってダラムサラではちょっとした有名人です。眼鏡の日本人はMr. N2、チベット問題を最も先鋭的に追いかけているフォトジャーナリストで、今回、ネパール・ヒマラヤの標高5700メートルのチベット人亡命ルートまでの苛酷な取材の帰途ダラムサラに滞在していました。月桃とは一緒にずいぶん回ってくれました。
見ての通り、ツェリンとMr. N2はただならぬ関係に陥り、これでチベット支援など出来るのかと周囲は気を揉みましたが、本人たちはただじゃれ合ってるだけだから心配するなと言いたげでした。
ツェリンはデモの時、足場の危うい柵の上でチベット国旗を激しく振り続け、ほとんどトランス状態になっているようでしたが、実際会ってみると本当にやさしく穏やかでスキンシップの大好きな男です。スキンシップの相手は男性、女性まったくお構いなしなんです。こんなチベット難民もいるんですね・・・感動の人物でした。

下の写真の男の子もルンタ・ハウスで働く亡命者の子どもです。
チベット人は仏教哲学に慣れ親しんでいるせいか、ものごとを曖昧にすることより真実を究めようとする態度が自然にあらわれます。この子も一緒にちぎり絵を作って遊んでいたのですが、曖昧で主観的な創作作業よりも糊の入った容器の構造にぐぐっと関心を注ぎはじめました。こうやって糊の容器の底から見ると、世界というものがやはり「空」なるものだと悟ったのか、しばし後にはすべてを放り出して遊びに行ってしまいました。

ルンタ・レストラン・レポートはこれにておしまい。
次回からいよいよ "Tibetan Children's Village" について報告します。
もう少しでダラムサラ日記も終わりますから辛抱して読んでみてくださいませ!
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# by kuukuu_minami | 2009-04-17 17:00
ダラムサラの空想料理店  その2
ルンタ・レストランについて知っていることを書きます。

ボクの友人の中原一博は1980年代にダラムサラに移住しました。大学でひとりチベット宗教建築を学んでいた頃から在日チベット人との交流がはじまり、大学卒業後ダラムサラの亡命政権からの招請状を受け取り現地に赴きました。仕事はもちろん亡命政権の様々な施設の設計です。その後、設計分野では多くの仕事を続け現在に至っていますが、建築家としての仕事の他にも亡命チベット人のために献身的に尽くしています。そんな流れのなかからダラムサラに滞在する日本人たちが自然に難民自立支援のNGOを立ち上げようということになったのだと思います。

1999年9月、ルンタ・プロジェクトの拠点になる4階建ての立派なルンタ・ハウスが完成します。完成に至るまでに多くの寄付が寄せられましたが、最後の決め手になったのがミュージシャンの浜田省吾さんからの寄付でした。というのも浜田さんと中原君とは広島時代の悪友でいっしょにバンドを組んだ仲でもあったそうです。ちなみに浜田省吾さんは難民の子弟が学ぶ”Tibetan Children’s village”にも多額の寄付をされ、”Shogo Home”と名付けられたホームがあり、30数人の子どもたちが共同生活を送っています。

こうした背景のなかからルンタ・プロジェクトならびにルンタ・レストランが生まれたのです。

さて、ルンタ・レストランではどんなチベタンが働いているのでしょう?
ルンタ・ハウスで働く人たちは原則としてヒマラヤを越えて亡命して来た人々です。
それぞれ個人的背景は違っても、みなあまりに苛酷な体験をしている人々です。

例えばパッサン・ドルジェの場合。
パッサンはレストランの厨房で働く男、写真でわかるようにいつもテンガロンハットをかぶりおかしな髭を生やした伊達男風で厨房ではいつも陽気に歌いながら仕事をしています。
しかし、パッサンも凄まじい経歴を持っています。

彼はチベット本土のガンゼ地方で生まれ15歳のときに自ら欲して僧侶になり、やがてガンゼの街頭にチベット独立の貼り紙を貼った罪で捕まり、6年半の刑を言い渡されました。
パッサンは後ろ手に縛られ親指に錠をはめられ、さまざまな拷問を受けましたが中国公安には妥協することなく良心を貫きました。その結果は極度の衰弱により見るに堪えない状態になりました。監獄では窓のない独房に手錠と足かせをかけられたまま1年も入れられました。その状況がどんなに悲惨なものだったか想像してください。6年半の刑期中にはさらに苛酷な仕打ちを受け続け衰弱の度合いは増すばかりでしたが、なんとか刑期を終えて外に出ることができましたがふたたび僧衣をまとうことを禁じられました。
その後も何度も警察に捕まり拷問を受けるという苦難の日々は続きましたが、2004年11月、生きているのが不思議という状態でヒマラヤを越えてネパールへ逃れ、そしてインド・ダラムサラへ到着できたのです。
レストランで陽気に働くパッサンを見ていると彼がこんな苛酷な体験をしているなんて想像することさえできまません。しかし、パッサンの体験はここダラムサラでは決して珍しいことではないのです。

ルンタ・レストランはいつも色々な人種の人々で賑わいボクにとっては理想的な空想料理店の雰囲気を持っていますが、実はこうした体験を持ったスタッフによって支えられているのです。

この日記は去年いっしょにチベット支援イベントの実行委員を担ってくれたmao☆さんのブログ「たまゆら雑記」から引用させていただきました。彼女はイベント終了後すぐにダラムサラに行き多くの亡命者にインタビューしてくれたのです。2008年9月と11月の記事に彼女がインタビューした記録が「証言」として掲載されています。みなさん、ぜひお読み下さい!
http://newborder.exblog.jp/m2008-09-01/
http://newborder.exblog.jp/m2008-11-01/

写真上:一見陽気な伊達男、パッサン・ドルジェ、いい男です。

写真中:やはり厨房で歌いまくるツェリン・テンパ、彼も少年時代の僧侶となりましたが、独立を訴えるデモに参加し捕らえられ、その後インドに亡命してきました。

写真下:厨房でおいしいパンやケーキを焼いているガワン・トプチェ。彼も元僧侶でしたが、彼の僧院にダライ・ラマ法王の写真を掲げたという理由だけで捕まり11年の刑を言い渡されましたが、監獄での拷問による衰弱が激しく追い出されるようにして病院に入れられ、その後亡命に成功しました。

(写真もmao☆さん撮影です、ありがとうございました)
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# by kuukuu_minami | 2009-04-17 13:42
ダラムサラの空想料理店 その1
ダラムサラのルンタ・レストランはマクロード・ガンジという一応繁華街風の通りから少し下ったところにあります。
レストランの入ってる建物はルンタ・ハウスと言ってこの日記にも何度か登場しているボクの古くからの友人中原一博たちが立ち上げたチベットの亡命難民のための自立支援NGO・ルンタプロジェクトと亡命難民自身のNGO・グチュスムが共同で使用運営しています。
ルンタ・プロジェクトのことはHPをぜひ参照してください。
グチュスムのことも詳しく載っています。
http://www.lung-ta.org/

ルンタ・レストランは日本食レストランです。
表から見たら通りに面した1階に見えますが谷のほうから見たら2階になります。広いテラスを含めたら50坪以上あるのでは?
日本人の直子さんとチベット人のソナム夫妻がマネジメントを取り仕切っていますが、働いてる人はみな亡命チベット人です。

店の雰囲気はとてもリラックスした感じで、お客さんは基本的にチベット好き、ベジ好きの諸国ガイジンさんたちと、日本人の旅人および滞在者が中心で、いつもかなり繁昌しています。
数から言ったら諸国ガイジンさんの方が圧倒的に多く、その中に黒目黒髪の日本人&チベット人が坐ったり立って働いたりしています。

ああ、この雰囲気って昔「諸国空想料理店KuuKuu」という料理店を開いたとき思い描いていたのと同じだなあ・・と感じました。
どこにもないけどどこにでもあるような交易都市の料理店・・・ダラムサラという町がそんな風にも見えるわけです。
もちろん、ダラムサラは中国の圧政から逃れてきた亡命チベット人たちの住む町ですから、「空想」という浮遊したような言葉はふさわしくありません。
ただ、ここには人種や民族という垣根を越えた空想的自由の気分があることも事実です。

直子さんとソナムのあいだにはチュニとチカという可愛いふたりの姉妹がいます。チュニは中学一年生、チカは小学5年生でチベット難民の子どもたちが学ぶTCV(Tibetan childerens village)に通っています。
ふたりは学校が終わると必ずルンタ・レストランにやって来て宿題をやったり、仲のよいチベット人の子どもたちと遊んだりしています。
チュニはとっても美人でちょっとはにかみ屋さん、なんか懐かしいような日本的乙女です。チカはちょっとおしゃまで明るくやんちゃです。夕方のルンタには諸国ガイジンさんたちと混じってルンタハウスの子供たちが入り混ざって不思議な光景を見せてくれます。

ある日、子供たちと一緒に絵を描きました。
何人かで一枚の絵を仕上げようということになり、みんなで集中したりさぼったりしながら楽しく描きました。レストランから見えるヒマラヤの山にかかる虹。ごく自然な風景です。

別の日には色紙をちぎってちぎり絵を作りました。チュニは細かい手仕事がとても上手で、他の子どもが飽きて顔に色紙をくつけて遊びはじめても淡々と丁寧な仕事を続けていました

写真上:チカちゃんとチベタンの親友。首に巻いてるのは誕生日のお祝いにもらったカタという白いスカーフ。

写真中:みんなで絵を描いてるところ、左の子がチュニ。

写真下:突然、顔をキャンバスにしてちぎり絵を作った男の子。とぼけたチベタンの子ども。

(つづく)

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# by kuukuu_minami | 2009-04-17 13:29
ヒマラヤに向かって  その3
2回目のトリウンド登山は一週間後、
この一週間ダラムサラはけっこう天候不順で雨も多く夕方からはかなり冷え込む日も多かった。
そのせいか風邪気味で前回より身体が重かったが
歩き始めれば大丈夫、まずは快調に高度を上げて行った。

最初の茶屋を過ぎたあたりで
すごく雰囲気のあるインドの爺さんに出会った
髭をたっぷりたくわえた仙人みたいな爺さん
片言の英語同士でしばらく談笑
笑顔がやさしく包み込んでくれる・・・
爺さんの後ろにはチベットの祈りの旗・タルチョが見える

「ほらあそこに4つの四角い屋根があるだろう
 その下に長い屋根が見えるかい? あそこがワシの家じゃよ・・・」
「へえ、あの村に住んでるんですか?」
「そうじゃよ、トリウンドの帰りには泊まりにいらっしゃい
 とてもきれいでしかも安いぞよ・・・・
「・・・?・・・・・・」
この仙人はゲストハウスを経営しているらしい
もしかしたら、毎日ここに坐って客の勧誘してるのかも?
さすが仙人は深いなあ。

やはり前回よりずっと疲労感は増しているようだ
峠にたどり着いたときにはけっこうバテテいたが
せっかくだから帰路はあの尾根道を下ろう・・・
僕は来た道ではなく東にながーく延びる尾根道を下ることに決めた
休むとからだが冷えるし筋肉も固くなるので
ほとんど休む間もなむ稜線をくだりはじめた

結論から言うと、ごろごろとした岩だらけの
遠くから見るよりずっと急勾配の道からの眺望はまさに絶景の連続で
しかも今日はだれひとりここを通っていないらしい
なんでここに?というところにひとり草を噛んでいる牛くんはいましたが
まったくひとりきりでこの尾根道と絶景を占有した気分
ただ、この道は長い・・ひたすら長い・・・
歩いても歩いても・・・この道は終わらない・・・
しかもところどころに敷いてある
黒い玄昌岩のようなスレート状の石畳に照り返す日の光で
たぶん顔は真っ黒に焼けているに違いない

谷の底の川にかかる橋まで降りるころには
足はガタガタ、筋肉は突っ張って・・・
でも、朝8時に歩き始め午後6時ころまで
ダラムサラの下の町ロウアー・ダラムサラまで歩き通しました
よく歩いたよ、ボクはキミを誉めてあげたい

この2回のトリウンド登山は
今回の、チベット亡命政権の町を訪ねるという目的からは
ちょっとはずれたものかも知れませんが
ヒマラヤを望む町に住む亡命チベット人たちが
祈りとともに見ている雪の山の近くに行けたということが
僕自身にとっても嬉しいことでありました
あの先にはチベットがある・・・・

上:人生の深い味わいを見せてくれた仙人
中:羊や牛を放牧する民のための石造りの小屋
下:たったひとりで草を噛む牛

次回はダラムサラの日本食レストラン「ルンタ・レストラン」特集?です。





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# by kuukuu_minami | 2009-04-12 10:56
ヒマラヤに向かって  その2
予定より30分以上早くトリウンドに着いた。
疲労感はほとんどないし、「ああ、歩けたんだ!」という安堵感がさらに身体を軽くしてくれたようだった。
トリウンドの峠には茶屋が何軒かとロッジが建っていたが、その日の登山客ではボクが一番乗りだったみたい。
一軒の小さな茶屋でひと休みしてたら、そこの主人なのか若いインド人が話しかけて来て、日本には友だちがいるよ、ホニャラカって名前・・・って聞こえたような気がした・・・小屋の中を覗いてみると小さなベッドがふたつあったので、
「ここにずっと泊まってるの?」と聞くと、
「ああ、そうだよ1年のうち10ヶ月はここに泊まってるのさ」という答え。
ボクは彼に「アー ユー ハッピー?」と聞いてみた。
「そりゃ、最高に幸せだよ! キミも今日泊まりなよ 夜も朝も信じられないくらい綺麗なんだから それに町の灯りだって最高だよ!」って言ってくれた。
本当にここに泊まったらどんなに気持ちいいだろう・・・

「ありがとう、でも次にするよ、また来るからね」
彼はインド人が頻繁に使う「ノンプロブレム ノンプロブレム」って言いながらおいしいチャイをごちそうしてくれた。
お礼にボクの絵のカードを2枚プレゼントした。

トリウンドにもヒンズーの小さな祠があった。

実はこのトリウンドには一週間後に2度目の登山をした。
1回目の帰路、同じ道を戻りながら途中ひとつ谷を間違えて2時間くらいのタイムロスをしたけど、逆にこの山がもっと身近になり、下山途中に日本に帰るまでにできればもう一度来ようと思ったのだ。そして帰りはこの道じゃなく、ずっと東の方に伸びている長い尾根道を下ろう・・・・。
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# by kuukuu_minami | 2009-04-10 00:30