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ジャコメッティのアトリエ
 1976年、25歳のときに初めてヨーロッパを一人旅した。10ヶ月あまりの気ままな旅だった、といえば聞こえはいいかも知れないが、当時ヨーロッパの数カ所に暮らしていた友人たちを頼ってのお坊ちゃま旅行ではあったのだ。

 2月の寒い明け方、パリのオルリー空港に降り立ったベルギーのサベナ航空機はその後の経験からいっても洗練されたサービスが気持ちのよいものだった。

これからの旅の心地よさを予感させる期待の感覚に胸を躍らせながら、まだほの暗い空港をあとにして僕はタクシーを飛ばし、パリのムッシュ・ル・プランス通りのアパートに住む山口博史の部屋に転がり込んだのだった。

 山口君のアパートにタクシーが着く頃には、モスクワ経由の長旅と時差ぼけで深い疲労感に襲われていた僕はすぐにベッドに潜り込んで眠りたかった。だが、そんな僕の思いは無惨にうちくだかれてしまった。山口君の部屋にはパリの日本人たちが6、7人集まっており、おそらく前夜から続けていたであろうトランプ遊びに夢中になっていたのだ。そして彼らは、はるばる日本から飛んできた新しい友人になるはずの僕の到着を型どおりの挨拶で迎えたあとは、また賑やかにトランプに興じるのだった。

「ショーキチ、疲れただろうからベッドで眠ってていいよ」と山口君は言ってはくれたものの、みんなの声のトーンはまったく低くなる気配はなかった。そのときの僕の気持ちは、「なんじゃこりゃあ?」というものだっただろう。なんじゃこりゃあ、でも眠ることしかないのであって、うつらうつらとするうちにパリの最初の夜は白々と明けていたのであった。

 気がつけば、ベッドの下に山口君ひとりが軽い寝息をたてて眠っており、あとの日本人はどこかに消えていたのだった。

 山口博史は当時パリの国立音楽院に留学して作曲の勉強をしていた高校時代からの友人だった。僕とはまったく違って理数系にめっぽう強く、女性にはこの上なく優しい奴である。彼は通りを走る車の音まで、すべての音が楽譜になって見えると言っていたが、すべての楽譜が幾何学的な抽象画に見える僕にはまったく信じられないことだった。僕が彼の部屋に転がり込んだ時にトランプに興じていた日本人はすでに名前の知られたピアニストや作曲家の卵、放浪詩人、スタイリスト、フランス菓子職人の卵など、花の都パリで開放感と未来への希望に満ちて暮らしていた人々だった。

 僕にはパリの最初の日にはこうしようと決めていたことがあった。

 それは彫刻家のジャコメッティのアトリエ跡を訪ねることだった。ジャコメッティは当時すでに亡くなっており、彼のアトリエが僕の知っているパリの住所にそのまま残っているのかどうか、それは判らなかったが、とにかくイポリット・マンドロン街46番地のジャコメッティのアトリエはどうしても訪ねなくてはならなかったのだ。

 その理由はとても単純なことだった。学生時代に夢中になって読み、まさに震撼するほどの感動を受けていた書物、矢内原伊作著『ジャコメッティとともに』の舞台になったアトリエを訪ねたいというものだった。

 『ジャコメッティとともに』はパリ留学中の哲学者・矢内原伊作が帰国予定の直前、たまたまジャコメッティのモデルになったがために結局日本へ帰ることもままならず、ただただ不動の姿勢でジャコメッティの前に立ち続けた数ヶ月の経験を中心に渾身の筆致で書き尽くしたジャコメッティについての究極の作家論だ。僕が学生だった30数年前には、この本に心底やられてしまった若者が巷には溢れていたかも知れない。そして僕もそんな若者のひとりだったというわけだ。

 たとえアトリエがなくなっていてもアトリエがあった場所に立ってその空気を吸ってみたいという、今から思えば若さゆえの過剰な思いこみそのものが僕を突き動かしていたのは間違いない。そもそも、ヨーロッパに行こうと思った動機の幾分かはジャコメッティのアトリエを訪ねることだったのだ。

 『ジャコメッティとともに』にはアトリエの外観の写真が添えられてあった。古い煉瓦に漆喰かモルタルを塗り重ねた壁が崩れかかっている。パリの下町にはどこにでもありそうな粗末な建物だった。写真のキャプションにはイポリット・マンドロン街46番地のアトリエとあった。

 初めてのパリの町をどう探したのか記憶が定かではないのだが、パリの地図を頼りに地下鉄に乗ったのか、バスを乗り継いだのか、薄曇りの午後の4時ころには僕はジャコメッティのアトリエのあった46番地の建物の前に立っていたのだった。その建物の外観は写真で見た通りのものだった。住所表示のプレートもそのまま、外壁の感じもそのままだった。「ああ、あった!そのままだ!」

僕はともかく無性に感激してしまった。もちろんジャコメッティはもういない。奥さんのアネットももうそこには住んではいなかったのだろう。そこには知らない名前の表札がかかっていたのだった。窓越しにのぞくと画家のアトリエのようだった。イーゼルとキャンバスと雑然とした部屋のたたずまいが目に入った。ぼくはそのアトリエの今の住人には何の興味もわかなかった。

「これでよし。」僕ははずむような足取りで山口君のアパートへ帰って行っただろう。

 その日から10ヶ月あまりのあいだ、僕はヨーロッパの様々な街で本当に多くの出会いと素晴らしい経験をしたのだった。それは生涯でたった一度の夢想的な日々だったと、間違いなく言うことが出来る。

 これほど僕にとっては大事だった書物『ジャコメッティとともに』は、その後よせばいいのに誰かに貸したまま行方知れずになってしまっていた。ずいぶん経ってから版元の筑摩書房からはハードカバーの改訂版も出版されたのだが、初版のソフトカバーの本を一心に読みふけった学生時代の記憶と手に残る本の重さと質感は改訂版からは感じることができなかった。そして、この十数年、失ってしまった初版本を時おり思い出しては「あいつじゃないか?」と犯人の目星をたてては追求出来ずに悶々と(?)していたのだが、実は最近神田の田村書店という古書店で初版当時のものを見つけて買うことが出来たのだった。Michikoという署名入りの本だったが、保存状態はとてもよく僕は大いに満足した。それが、このHPの最初にジャコメッティのアトリエを訪ねたことを書くきっかけになったというわけなのだ。

 後日談をもうひとつだけ書いておきたい。

 『ジャコメッティとともに』の著者である哲学者の矢内原伊作氏と僕はある友人を介して不思議なことに親しい交友関係をもつようになった。矢内原さんは散歩の道すがらや立ち寄った喫茶店などで「ショーキチ君、ジャコメッティはね、辻まことはね・・・・」と気さくに飄々とジャコメッティややはり僕の大好きな辻まことの話なんかをしてくれたのだった。そして、僕がやっていた(今でもやっているけれど)まめ蔵というカレー屋で「矢内原伊作の時間」という講演会まで開いてくれたのだ。なんだか勿体ないくらいの出来事だったのである。

 その矢内原さんもとっくに亡くなられており、ここに書かせてもらったすべてのことは遠い時間の彼方のこと、僕のなかの大事な記憶の風景になっているのです。
by kuukuu_minami | 2006-04-07 13:58


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