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韓くにの桃
テラコッタ作品集『桃の楽々』に収めたエッセイのなかから、珍しくちょっと真面目に書いた文書を再録します。僕の来歴にまつわる話ですが、ふむふむさようか、と読んでいただけたら嬉しいです。
『桃の楽々』はHPの「絵本など」に解説をつけてあります。


 韓くにの桃

 この作品集に収めた作品のなかには韓国ソウル郊外の工房で作ったものも数多く含まれている。表紙につかった作品もはじめてソウルで作った作品のうちのひとつだ。韓国の土で作りたい、できれば韓国の火で焼きたいというのは永いあいだの夢だった。

 韓国人の父と日本人の母のあいだに生まれた僕にとって、韓国的なものとの出会いと相克は幼いときからの避けられないテーマだった。振り返ってみれば、自分が半分の日本人、半分の韓国人であるという事実を事実として受け入れることができるまでには随分長い時間が必要だった。
 十八歳の時に父の願いに折れるようにして、初めて韓国を訪れた。下関から小さな関釜フェリーに乗って釜山の港についたのが韓国の最初の一歩だった。どこからともなく流れてくるキムチの匂いが鼻を突いた。がにまたのオモニたちが頭に大きな荷物をのせて歩いていた。まったく読めないハングルの看板が船酔いをさらに深めるようにぐるぐる回っていた。
 釜山でもソウルでも町には活気があふれ、至るところで道路は掘り起こされ、煉瓦作りの急造ビルが立ち並んでいた。不思議な懐かしさが満ちてもいるようだった。
余り気乗りしないまま参加したソウル大学での夏季学校で一ヶ月の語学研修と歴史教育を受けた。そこで初めて同じ境遇に生まれた同世代の人間たちと出会い、寝食をともにすることとなった。多くは関西から来た青年たちだ。彼らはほとんど関西漫才のノリで、ひたすら明るく元気でやんちゃな学生たちだった。あんな風になれたらとは思ったが、その頃はかなり内向的だった僕には誰ひとり友だちもできなかった。
 
 ひと月の夏季学校が終わり、迎えに来た父と父の故郷である慶尚南道・晋州に向かうことになった。生まれて初めて乗った飛行機は小さなプロペラ機で上空からは手にとるように韓国の景色が見えた。緑の少ない山野に藁葺き屋根の農家の集落が見え、ところどころに大陸的な大きな河が蛇行していた。あまり予想はしていなかったが胸がキュンとなるような郷愁に襲われた。それはそれで美しい風景だったのだ。
 晋州にも大きな河が流れ、町はしっとりと落ち着いていた。ホテルに着くとすでに何人かの親戚たちが集まっていて、抱きかかえるように歓迎してくれた。
 翌日のことだった。ひどく暑い日だったことを覚えている。何人もの人々が同行して先祖の墓参りに行こうということになった。市内から車でずいぶん走ったような気がする。
 車を降りてから、辺鄙な山奥のそのまた奥といったところにある祖父母の墓をめざして山道を列になって登り、汗にまみれ藪をこぎ虫に刺されながら歩いた。お墓はそこだけ開かれたような日当りのよい急な斜面にあった。草に覆われたこれ以上ないくらいに素朴なふたつの土饅頭がこんもり盛り上がっていた。土に還るという形容がぴったりの墓だった。
 見慣れない朝鮮式の儀礼のあとに、見よう見まねで土饅頭に手をついて額をこするようにした時、不意に自分を襲った底から突き上げてくるような感情はなんだったのだろう。後にも先にもあんな号泣状態に陥ったことはなかった。堰を切ったように涙があふれ出てきたのだ。
 
 ものごころついた頃から「自分はどこから来たのか?そしてどこへ行くのか?」というどうにも答えの見つからない問いに囚われていた僕は、この草茫々の粗末な土饅頭の下で眠っている祖父母と宿命的に出会ってしまったのだろう。きっと「おまえは他のどこでもない、ここから来たんだよ」と教えられたのだ。
 その日、さらに多くの父方の親戚に会った。韓国人は情に篤いとはよく言うが、この親族たちの情もあまりに篤い。ほとんどまったく言葉のわからぬ南家の嫡子の前に数え切れない親戚の者たちが現われ、みなが泣いて笑っている。貧しい田舎の村なのだが、これを喰えこれを飲めと、手をにぎり体をさすりながらもてなしてくれる。村中が湧きたっているような感じといったらおおげさだが、僕の実感としてはそのようだった。
 その日の夜に父から初めて聞く父の来歴、韓国の家族たちのはなしは僕を驚かせるに十分なものだったが、それより村の黄昏時にもう食べられないというのに無理やり食べさせられた素麺にあたったのか、空前絶後の激しい下痢が続き、「おやじ、そのはなしは明日にしてくれ」と言うのが精一杯。往診の医者の打ってくれた下痢止めと鎮痛剤のおかげか夢うつつに朝を迎える頃には少し楽にはなっていた。そしてなぜだか、昨日の涙の意味が自分には痛いように分かる気がしてくるのだった。それははじめて自分自身と和解できた日だったのかも知れない。
 父から聞いた話はここでは触れないが、まあ、大変な人生を生きて来た人なんだな、と不思議なほど父を愛おしく思えるのだった。

 あの夏の日から三十五年という歳月が過ぎた。いまでも、自分の「生きること死ぬこと」に思いを向けるときに必ず、あの土饅頭の墓の情景と、まだ貧しかった故郷の小道を歩く家族の一群の情景がなつかしさの感情とともに胸を去来する。
すでに父も母もなく、二歳違いの姉も亡くなり、一緒に土饅頭の墓に参った親しい親戚の者たちの多くも土に還っていった。そして七年前には亡くなった父のために、晋州市郊外の山のなかに新しい土饅頭を造ることもできた。

 ヒトは「土偶の人」になるために生きて死ぬ、そんな思いが僕の頭のかたすみに棲んでいる。
                         (2004年9月記す)
by kuukuu_minami | 2006-11-18 01:28


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