人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ソウルで個展だよ!
ソウルで個展だよ!_f0067255_12492760.jpg


かれこれ6年ぶりにソウルで個展です。

5月19日から28日まで
仁寺洞(インサドン)のクラフト・アウォンというスペースです。
地下鉄・安国(アングッ)駅から仁寺洞に入ってちょっと
金属工芸とアクセサリーの阿園工房(アウォンコンバン)の向かいの2階

といっても誰もわかりませんよね

ソウルで一番の仲良し姉妹がやっている
オシャレな会場です

今回はいつものガラス絵とテラコッタのほかに
写真のように
けっこうシブイ陶器の酒器セットも展示します

これで日本酒呑むといけます、ホント!

そのうち東京でもやりますんで
どうぞよろしう!

momo no hito_복숭아 사람
남상길 작은 개인전 2010년 5월19일(수)-28일(금) 11:00-19:00
인사동 크라프트 아원(쌈지길 맞은편 건물2층) Tel. 02-738-3482

ソウルで個展だよ!_f0067255_12501321.jpg


ソウルで個展だよ!_f0067255_12504843.jpg

# by kuukuu_minami | 2010-05-15 12:51
荒井良二はすごい!

4月6日、もとKuuKuu→みな李の
荒井良二さんの壁画消しライブペインティングを
企画しました、というよりクラムボンの原田郁子ちゃんと相談して
荒井さんにお願いしました
というのは、元KuuKuu→みな李のあとに原田郁子ちゃんと妹さんの奈奈ちゃんが
中心になってお店を展開することになったからです。

12月末で閉店した「みな李」のあとに入ることになった
郁子ちゃんたちとお店のことで相談に乗っておりました

これまでの空間をかなり大胆に変えるというプランで
新しい店を構想するなかで
壁画のあった壁を白に戻してドアや窓をつけることになりました

17年前に荒井さんに描いていただき
いまもまったく色あせていない壁画を
白に戻すという大胆かつ残酷なプランは
荒井さん自身にやっていただく他はないと思い
ドキドキしながら荒井さんにお願いしたのです

「あ、いいよいいよ、やるよやるよ・・・」といつものように
言葉をふたつ重ねて荒井さんは了承してくれました

こうして17年の歴史のある素晴らしい壁画を
荒井さん自身に消してもらうことになりました

当日は他の店舗のこともあり
一般の方に告知することはできませんでしたが
もとKuuKuuのスタッフやその子どもたち
編集者や親しい作家仲間など50人くらいが
上から下から見守っておりました

荒井さんはほとんど手だけで
すばらしい速度で、消して残すペインティングをしてくれました
写真で見ていただけるように
白い空間に沢山の家のような船のようなものが浮かび
ほとばしるような色と線がすべてを結び会わせ
ダイナミックで繊細なもうひとつの荒井良二の世界が現出しました

それは過去と未来がまざりあって
あたらしい自由の場所に向かう船上の出来事のようでした

さらに素晴らしかったのは
ハナレグミのタカシ君とクラムボンの原田郁子ちゃんが
(なぜか・・・)
荒井さんの動きにあわせるように
ずっと歌い続けてくれたことです

空前のライブペインティングと言ってもよいくらい
想像をはるかに超えたパフォーマンスでした
立ち会ったすべての人がすごくいい顔して見守っていましたよ

ごく限られた方々しか立ち会っていただけなかったのは残念ですが
ムービーで記録もしましたので
いつかどこかで見ていただける機会があるかも知れません

たったいま吉祥寺に駆けつければ
荒井さんの新しい壁画は見ることができると思いますが
工事の過程で遠からず
本当に消えて白い壁に隠れることになっています

新しい店がオープンの運びとなりましたら
また荒井さんのライブなどもできるかも知れません
(僕の店ではないのではっきりしたことは言えませんが・・・・)

1993年にKuuKuuの壁画として生まれた
荒井さんの傑作をみずから消すという
本来とてもさびしい行為を
このように明るく輝くものにしてくれた荒井さん
感謝のことばもないのですが、やはり・・・

どうもどうも
ありがとうありがとう!

写真上ははじまる前の荒井さんのあいさつの場面
はじめから笑わせてくれ、みんながリラックスできました

中の写真はいよいよ終わりに近づきました。

下の写真は消して描いてまた現れた壁画の前で
荒井さんと郁子ちゃんとKuuKuuのスタッフだったしおりちゃんのこどもの和楽
荒井良二はすごい!_f0067255_1415778.jpg
荒井良二はすごい!_f0067255_142206.jpg
荒井良二はすごい!_f0067255_1423774.jpg

# by kuukuu_minami | 2010-04-16 01:44
ネパール、インドの旅

2月11日から3月4日まで
ネパール、インドと旅してきました

この日記で何度も書かせてもらった
チベット難民のこどものドキュメンタリー映画の取材でした

成田からひとりでインドのデリーに飛び
12時間のトランジット予定が23時間に延びるという
インド式洗礼を受けつつも楽しみいっぱいのはじまり

デリーからはじめてのネパール・カトマンズに着いて
インドの雰囲気とはまるで違う
ゆったりまったりした感じにまずほっとする

デリーからの飛行機の到着が10時間も延びたのに
朝から10時間も待っててくれた
安ホテルの主人の出迎えを受けて
サンライズコテッジヘ

カトマンズは無茶な排気ガスを除けば
すこぶる居心地の良い町だと思いました
廃墟のような市街がなぜか
人類の未来の町のように感じられ
こんな風に滅んでゆくのもオツなもんじゃないか

この町の叔父さんのところに
インド・ダラムサラのTCV(tibetan childrens village)
という寄宿制の学校から冬休みを利用して
来ている映画の主人公になる少年と再会し

カナダ・トロントからこの映画の通訳・コーディネーターとして
ネパール入りしていたチベット人のTと合流
難民ゆえにパスポートを持たない少年を
三日かけて陸路でインド・ダラムサラまで引率するという
願ってもないミッションを遂行!するのです

少年の名はオロ!
中国・チベット本土に住む母親と家族の身の安全のために
本名ではなく、少年の幼い時の通名を使うことにしました

カトマンズから車で7時間ほどで
8000メートル級のヒマラヤを望むポカラに到着
たまたま泊まることになった小さなホテルの日本語を話す主人と
東京の話などしているうちに
吉祥寺のネパール料理を出すサジロカフェを知ってるかと尋ねると
「知ってるよ、友だちがやってる店だよ」という返事
サジロカフェ&シバカフェのイケメン主人・ニールは同じ吉祥寺仲間で
何度も会ってるいい男です
へえ!うれしいなあ、とお互いびっくり嬉しの抱擁

(実はさっきまでシバカフェに行っていてニールにポカラの写真を見せながら
ネパール談義に花を咲かせていたのです・・・・
サジロ&シバの両カフェは最高の雰囲気ですよ!)

ポカラからはインド国境の町スノウリまで
やはり車で7時間くらい
国境の町スノウリと言っても
ネパール人、インド人、チベット人は
ほとんどど何のチェックもなしに素通り
それ以外の外国人だけ徒歩で国境を渡りながら
ふたつの国の イミグレでパスポートにポンとスタンプを押してもらうだけ
それも普段着まるだしのひげ面のおっちゃんが
ほこりだらけの街頭で面倒くさそうにやってるだけ

んはははっは!ますます楽しい旅の道中であり・・・・

なんかまたしつこく長くなりそうな気配がしてきましたので
ずっとハショリます

長時間の車の旅と、インドに入ってからの
お定まりの遅延とノーアナウンスで待たされるホームでの待機
ちょっと寒かったけど、オロとTとの密で蜜な時間は替えがたく楽しいもんであり

さてさて、やっと到着した列車はなんかキタネー!なあ・・・
Tは16時間くらい乗るんじゃない?って言ってたのに
ほぼ24時間のゴキブリ寝台列車がこれまた愉快!(ホンマかいな)
そんなこんなでジャランダという辺鄙な鉄道駅に着いたのが真夜中の1時ころ
眠りこけているタクシー乗り場のおっちゃんを起こして、さらに4時間ほど走って
チベット難民の拠点になっている北インド・ダラムサラに着いたのが
2月20日の早朝のこと
ホテル入り口で眠っているカシミール人の男を起こして
やっとベッドにありつきました

もうすでにこの頃には
ワタクシとオロ!はすっかり仲良しになり
ホテルや寝台車でもしっかり抱き合って眠るほどに・・・

さて、ダラムサラでは
成田から直行で先着していた
監督の岩佐さんとカメラマンの津村さんと合流

いよいよ、映画の撮影がはじまるのです・・・

それから2週間、ほぼ休みなく撮影は続き
オロ!が可愛いだけのチベタンではなく
とんでもないやんちゃでしかも頭のいい子だとわかり
時には翻弄されもしながら濃密な時を過ごして
3月2日、監督たちよりひと足先に
帰国の途についたというわけです

映画の現場に立ち会ったのは初めてでしたが
想像していたよりもずっとわかりやすくシンプルに
ことが運ぶので、まったく戸惑いもなく入り込めました

ただ、現場では練達の監督とカメラマンの仕事なので
年齢だけは練達?のワタクシの出番は少なく
オロ!の子守役がおもな役どころ・・・
いや、実は自分もものつくりの人間なので
「ああ、オレならこうするなあ・・・」と思うことがしばしばで
その思いをストレートにぶつけちゃあ、なんか角が立つしなあ
とそこは控えめに、しかし笑いだけは大盛で提供することを
心がけてまいりました・・・・

やっぱ、表現はお山の大将でやらなきゃね。

今後のことはまだ未知数でありますが
撮影は少なくともあと2回のロケを経て来年の春には
とりあえずクランクアップから編集作業に入ることと思います

詳しいことは順次ご報告させていただきます。

写真は3点ともオロ!かわいい!!
上はポカラのレストランでひょうきん族やってるオロ!
中はインドの夜行列車のなかで何を思うのか、オロ!
下はニューヨークで「日比の食堂」という日本レストランを
経営しているもんたどんから新年に送ってもらった
エコバッグを持ってわざとらしい顔をしているダラムサラのオロ!
後方は岩佐監督。
ネパール、インドの旅_f0067255_12122433.jpg
ネパール、インドの旅_f0067255_12124723.jpg
ネパール、インドの旅_f0067255_1213953.jpg
ネパール、インドの旅_f0067255_20475945.jpg
ネパール、インドの旅_f0067255_20481520.jpg
ネパール、インドの旅_f0067255_20483189.jpg

# by kuukuu_minami | 2010-03-08 12:14
うまやはし日記
9月22日、浅草・厩橋の近く
「アノニマスタジオ」にもとまめ蔵・KuuKuuのスタッフ
リーダーこと高橋香織の作品展を見にに行った。

アノニマスタジオ刊の高山なおみの『日々ごはん』の最新刊の表紙を
リーダーが担当したことで開かれている記念展。
スタジオでは臨時のカフェがオープン。KuuKuu仲間のエバのいつもの絶品ジャムだけでなくガレット屋さん、それにおともだちのパン屋さんと焼き菓子屋さんもで大層おいしいカフェでありました。
エバのガレット+桃ジャムはいままで食べたガレットのなかで最高の味でした!
といっても、生まれて2回しかガレット(蕎麦クレープ)は食べたことがないのですが・・・。
絶対あれ以上うまいガレットなんかあるはずがない!

リーダーの絵や手作りバッグも格段にいい味を出すようになっていて、やはり社会で仕事をすることの意味があるなあ、とアノニマさんに人ごとながら感謝。

さて、厩橋といえば思い出す一冊の本があり
久しぶりに本棚から取り出して鞄のなかに潜ませて出かけたのが
詩人・吉岡実の『うまやはし日記』

吉岡実は学生時代からいままで最もよく読んできた現代詩人。
1919年に東京本所に生まれ1990年没。
生地が本所とあるが住まいは厩橋の近くだったらしい。

『うまやはし日記』は1938年から40年にかけて、若き詩人が徴兵検査を経て出征する頃までの日記。本格的な戦争までは若干時間のある日本の妙な気分と文学に生きたい若者のその日その日の小さな足跡が記されている。

友人や縁者のこと、その日読んだ本のことが中心なのだが、何度か読んでいるはずなのに虚飾ない簡潔な文章が常に新鮮で、後の詩人の姿を彷彿とさせる潔さです。

1921年には厩橋のすぐ先、吾妻橋付近で僕の母が生まれているので
『うまやはし日記』に出てくる当時の浅草界隈の映画館やカフェの様子などに
幼い母の面影を見たりして妙になつかしい気分に浸れもするのです。

短い日記の中からすこし引用。

昭和13年(1938年)8月31日
 貯金帳(八十円)と退店手当(三十円)を貰う。五年間の小僧生活の哀しさ、懐かしさ。店の連中と別れの挨拶。英子は「さようなら」の一言。葉子は「本当は好きだった」の謎めいた言葉。後輩二人と本郷三丁目の青木堂で珈琲をのむ。皆に見送られ雨の中を、自動車に乗った。夕方、厩橋の家に着く。荷物が本ばかりなので、母は呆れた。

昭和14年某月某日
 夕方より仮検査で本所区役所へ行く。高等省小学校のクラスメート山野辺、土切、中山、味方らがいる。初めは眼の検査だった。「眼がすんだ人は道具をすぐだせるようにしときなさい」の声に、どっと笑いがひびく。「チンポコを握られるなんていやだなあ」。みんな無事通過す。蔵前通りの南屋でコーヒーをのみ、談笑して別れた。

3月28日
 パニョル『トパーズ』、芥川龍之介の短編の再読。『ドミニック』読みはじめる。母に女の子の名前を考えてくれと言われる。みなみ 敦子 葉子 伊勢など。

4月3日
 雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」のジャン・ギャバンは素晴らしい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた。南山堂へは寄らず、赤門まで散歩。夜、ジイド『コンゴー紀行』を読む。一時間ほど習字。

4月21日
 洗濯。久しぶりでひっぱり出し、「新短歌」に目をとおす。あとは『月下の一群』。夜、家に行くと、母が茹卵をくれた。茹卵を食べると、不思議に桜の花が浮んでくる。

8月23日
 夕四時ごろ、支那そば屋の慶ちゃんの家にゆき、連れ出して浅草から上野へ出る。不忍の池でボート遊び。白や桃の蕾が大きな葉の中に見える。湯島天神下を通り、古本屋で『白秋小唄集』を求める。広小路の水戸屋でソーダ水や蜜豆を食べた。慶ちゃんのおごり。田原町で別れた。堀辰雄『聖家族』(江川版)が届いていた。

10月29日 
 暁の四時、空襲警報で起こされる。月が皓々と薄雲を透かしている。先生不在。南明座へ「たそがれの維納」を見に出かける。帰りの電車の中で警報を聞く。

書き写してるとキリがありません。
戦前の二冊の日記が焼失を逃れ、この『うまやはし日記』にまとめられたのは吉岡実の亡くなった年のこと。

22日のことをを吉岡さん風にまとめたら
9月22日
 厩橋のアノニマスタジオへ香織の展示会を見に行く。エバのガレットを食べる。なっちゃんも来たので少しおしゃべり。ひとりで吾妻橋から伝法院、花やしきあたりを歩き、立ち並ぶ屋台飲み屋で生ビールに煮込み、冷や奴。母の実家の墓がある寺の脇を通り田原町へ。地下鉄で神田に出て中央線に乗り換え吉祥寺。きょうの締めは中清の粗挽き蕎麦と日本酒で・・・だが、その前にまめ蔵に寄ってみると厨房シンクの配水管からの水漏れが外まであふれてていて、酔いも冷める。西友に行ってインスタントセメントを求め、水が外に出ないように工夫する。作業の終わりは12時を過ぎて粗挽き蕎麦も日本酒もおじゃん。スタッフも遅くまでお疲れさまでした。吉岡実の『うまやはし日記」を読み続ける。

こんな感じかな。
ちなみに吉岡実さんとは渋谷の百軒店の喫茶店で一度だけ会ったことがあった。あるダンス専門誌の舞踏特集の編集を頼まれ、吉岡さんに原稿のことで相談に乗っていただいたのだ。吉岡さんは土方巽、大野一雄、笠井叡ら舞踏草創期の異才たちの佳き理解者だったのだ。
お会いしたときは、まめ蔵をはじめて間もない頃、僕は絵を描き始めたばかりで、毎日新聞社主催の日本国際美術展に入選したという話をしたら「そうか、入ったか!」と嬉しそうに言ってくれた。当時の絵はいまとは似ても似つかない抽象表現主義風のリトグラフ、現代美術なら基礎もいらんからなあ、と思ってはじめたわけです。

その後すぐ、吉岡さんがまめ蔵の前をひょっと覗きながらゆっくり通り過ぎたのを厨房でカレーを作りながら見つけたのだが、オーダーが溜まっていてすぐに追いかけることができなかった。あんな路地を偶然通ることなどあり得ないから探してくれたのだろう・・・。その後会う機会を逸し、吉岡さんは1990年に亡くなってしまった。大いに悔やまれるのでありました。

『うまやはし日記」は書肆山田1990年刊
エバの日記はジャム作りが中心だけど写真も文章もセンスがいいよ。
http://blogs.dion.ne.jp/evajam/archives/8774261.html
# by kuukuu_minami | 2009-09-27 13:46
ディヌ・リパッティ最後のリサイタル
このごろ

いつにもまして
とりとめもなく日々が過ぎる
ほぼ毎日のようにたっぷりの時間のなかで
空を見ながら過ごしている
ねばならぬ仕事は大体忘れたように
作業台のはしっこに積んでおく

思い立つとそればかり繰り返す
この数日はディヌ・リパッティの
1950年9月16日フランス・ブザンソンでの
最後のリサイタルのCDばかり聴いていた

ディヌ・リパッティはルーマニア生まれのピアニスト
愛妻マドレーヌとスイスに亡命後
類い希なテクニックだけでなく、深い美しさを持ったピアニストとして
世界中の賞賛を得ていた

だが、彼は不治の難病に罹っていて
リパッティも周囲の人も医者も
これが最後の演奏になるとわかっていた
歩くこともおぼつかないまま演奏会場に着き
何本もの点滴を受けながら
舞台に上がった

その時の演奏が録音されて遺っている
「ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル」

バッハのパルティータ第1番
モーツァルト ピアノソナタ第8番
シューベルト 即興曲第3番 第2番
ショパン 13のワルツ 

ショパンのワルツは14番まであるけれど
最後にのこした第2番を演奏することはもう出来なかった

リパッティはその年1950年12月2日に33歳の若さで亡くなった

1950年という年は僕が生まれた年でもある
僕が生まれたのは8月5日
その年の6月25日に勃発した朝鮮戦争は
北朝鮮の侵攻の勢いが韓国南端の釜山にまで及び
僕が生まれたその頃も
参戦した米軍・国連軍との激烈な攻防が繰り返されていた
すでに南北双方で数十万人の犠牲が出ていただろう

韓国で生まれ、若くして日本に渡ってきた僕の父は
待ちに待った嫡男の誕生を
どんな思いで受け取ったのだろう

9月16日
リパッティがブザンソンで最後のリサイタルを開いたその日
韓国では15日だが
米軍の精鋭、第1海兵師団、日本に駐留していた第7海兵師団が
ソウル近郊の仁川に上陸
韓国軍7万人とあわせて大規模な反撃がはじまった・・・

世界は広いものだと思う
東洋の小さな半島では同じ民族が
国連軍の名のもとに多国籍の人々をも巻き込み
激しい憎悪を掻き立て殺戮を繰り返し

西洋の小さな田舎町では
人間がなし得る最良の音楽行為が行われていた

リパッティが1950年に亡くなったということは
単なる偶然だけど
彼のピアノを聴いていると
生きてあることの喜びとさびしさと・・・
自分の生とか死とかなにかを重ねてみたくなるのです

もし、自分にとって最後の一枚はと訊かれたら
迷わずリパッティ最後のリサイタルを挙げると思います

いまは、便利なyoutubeというものがあって
リパッティの最後のリサイタルを
演奏順に聴くこともできます
http://star.ap.teacup.com/stravinspy/16.html

これをyoutubeにまとめてUPしてくれた方、本当に奇特な方です。
僕の持ってるCDには入ってないのですが、
ショパンのワルツ2番は力尽きて弾けなかったものの、
最後の最後アンコールにバッハのカンタータ「主よひとの望みの喜びよ」を弾いたそうです。
Youtubeにはこの曲のスタジオ録音盤も入っています。
よかったらみなさん、聴いてちょんまげ!

最近すこし関わっているチベット問題について言えば、
1950年という年は中国がチベット侵略を始めた年でもあります。
なんか、大変な年に生まれてこんなトッチャン坊やでいいのだろうか・・・。

ちなみに僕の叔父、父の弟は1953年朝鮮戦争が休戦になる直前、
江原道の戦闘で27歳・独身のまま命を落としています。
ディヌ・リパッティ最後のリサイタル_f0067255_1634159.jpg

# by kuukuu_minami | 2009-09-21 16:35