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『絵本の子どもたち』
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絵本の子どもたち

水声社から『絵本の子どもたち 14人の絵本作家の世界』という本が刊行されました。著者は寺村摩耶子さん。

この本を紹介するのはちょっと気後れする部分もあります、というのも
この14人のなかにワタクシこと南椌椌も入っているからです。
片山健、長新太、スズキコージ、井上洋介、宇野亜喜良、荒井良二、木葉井悦子・・・とまさに現代の絵本世界を代表する作家たちのなかに加えていただいたのは嬉しい限りなのですが、絵本作家というには余りに作品も少ないし、日頃絵本のことをほとんど忘れて遊んでいる身でありますので・・・ちょっと気恥ずかしいのが本音なんです。でも寺村摩耶子さん、ありがとう!これからちゃんと頑張ります!

13人の作家たちの多くの方々は実際に面識があり、とくにスズキコージ、荒井良二、沢田としき(つい最近亡くなりました)は親しい友人であり、何度となく飲んで遊んだものです。片山健さんは古くからお付き合いさせていただいている敬愛する絵描きさんです。吉祥寺でKuuKuuを経営していた頃には井上洋介さん、たむらしげるさん、宇野亜喜良さん、飯野和好さん、酒井駒子さんとも何度もお会いしたことがあります。亡くなった長新太さん木葉井悦子さんは作品、お人柄ともに大好きな作家でした。谷川晃一さん、島田ゆかさんは作品を通してのみ知る作家です。

ここで寺村さんが書いた14人の作家論すべてについて紹介することもできませんが、いくつかの素敵なフレーズを引用しながらこの本の魅力の一端でも伝えられらたら嬉しいです。

絵本作家論というのは殆ど読んだことがないので、比較はできませんが、『絵本の子どもたち』は絵本作家論という限定をつけないでも極めて魅力的な評論集だと思います。

それは、寺村摩耶子さんのアートに対する柔軟かつ広範な感受性と、愛情ある繊細な文章力によるものだと思います。
各作家の初期の作品から最近の作品まで通底するそれぞれの作家性をやんわりと押さえながら個々の作品の魅力について語る語り口はとても清々しいものがあります。それは彼女が本当に絵本が好きで、絵本によっていかに慰められているかという個人的事情がまず存在するからでしょう。

僕も読んだことのある多くの絵本が語られますが、しばしば「おお、そうなんだよね!」と膝をたたいて頷くことがありました。

日本の絵本の世界でだれもがまず思い浮かべる作家は長新太さんではないかと思いますが、寺村さんの長新太論はとても新鮮かつ深い読みによって、一見ナンセンスなユーモアにあふれた長新太さんの絵本の世界の深部を照射してくれます。

1993年だったと思いますが、僕は一度だけ長新太さんのお宅を訪ねたことがありました。トムズボックスの土井章史さんといっしょでした。
長さんのアトリエは居間と兼用だったような記憶がありますが確かではありません。ただ、大きな作業机の後ろの本棚がとても魅力的な風情だったのをよく覚えています。どんな本が並んでいたのか、じっと眺めたわけではありませんが、本好きには本棚の醸し出す風情だけでなんとなくその書棚の持ち主の趣向がわかるものなんです。その時感じたのは、長さんの読書の趣味がとても洗練されていて新しい文学や芸術の思潮にも柔軟な思考をお持ちのようだな、ということでした。たしか永井荷風の『断腸亭日乗』全集が左上の棚に並んでいたと思うのですが、それからして「さすが長さん!」と思わずにはいられませんでした。それからアメリカの現代美術の作家たち、ニューペインティング系の画集もさりげなく置かれていたように思います。

なぜこんなことを書くかといえば、寺村摩耶子さんの長さんについての記述を読んでいると、もう17年も前の長さんのお部屋の本棚の風景があざやかに甦ってくるからなんです。

寺村さんは長新太さんの絵本の魅力を、たとえばアメリカの現代美術の作家、マーク・ロスコ、フランスのシュール・レアリスト、アンドレ・ブルトン、ハンス・アルプ、種村季弘などを挙げながら解き明かしてゆきます。

2002年に寺村さんが長さんにインタビューした時のことが語られていますが、そこで長さんは絵本に頻出する「地平線」のことをこう語ったそうです。
「そういうところが生理的に好きだから。制作するときに自分の好きなものだけをやるという意識があってね。だから水平線を描いたり、地平線を描いたり。いつも、そこからじゃないと出てこない・・・」

そして後段、引用している種村季弘のナンセンス論の一節は
「子供、詩人、狂人、原始人に通有の、この方向(センス)の倒錯こそはナンセンスの基本的な構造なのである。個人的な体験に照らすには幼年時の追憶に頼るがいい。狂人にも詩人にもならなかったにしても、だれしも一度は、あの方向(センス)の無秩序が支配した子供部屋だけは通ってきただろうからである」種村季弘『ナンセンス詩人の肖像』

これに続けて寺村さんはこう結んでいます。
「生理的な心地よさ」をたいせつにしながら、あたかも目に見えない深い土の下をどんどん掘り進むことによって、長新太は「子どもの王国」をゆたかにひろげてきた。子どもと大人を超えた「土中」における「宇宙」のごとく、そこには底知れぬ世界がひろがっている。

長新太という作家の本質を見事に言い当てていることがわかると思います。

長さんばかりではなく、14人の作家それぞれに対する評言のたしかさ、愛の深さ?にはしばしば驚かされました。

引用が長くなりますが、何人かの作家についての寺村さんらしい文章を引用しておきます。実際の絵本を手にとってみないとわかりにくいかも知れませんが、寺村摩耶子という絵本の読み手から手渡される愛情あふれるメッセージとして読んでいただければと思います。


「そうだ、これこそは真の子どもの姿だった。積み木の山を破壊する子ども。土でも石でも何でもおかまいなしに口の中へ入れてしまう子ども。本能のおもむくままに行動する、自然そのものの純粋な子ども。(中略)『どんどん どんどん』に描かれているのは、そんな子どもという生き物の爆発するようなよろこびである。破壊と創造を同時にやってのける、小さな神のような子ども。「あるひ」はじめて歩きはじめた子どもの生の衝動をとおして、片山健は、原初の生命のよろこびを、水や土、風、火の混沌と一体になった世界のはじまりのなかに描きだしたのだった。」(「片山健 やってきた子ども」より)

「横判の表紙に敷かれた白い線路は、見返しを通って、絵本一冊まるごと横断し、裏表紙からまた表紙へと永遠につづいている。(中略)「ガガガガ ガッタン ガッタン」「ゴットン ゴットン ガッタン ガッタン」・・・・ことばはいっさいなく、きこえてくるのはただ心地よくゆれる列車のひびきばかり。小さな駅にとまるたび、車両はすこしずつのびて、仲間もふえてゆく。一方、旅はいよいよ峠にさしかかり、赤や緑の山肌がみえるおそろしい道、火山口から白いけむりがのぼる、この世の果てのような荒野を通りすぎても、乗客たちはうっとり列車にゆられている。もはやことばをかわす必要のないほどみちたりているかのように、国境も標識も、此岸と彼岸の境界もなく、あらゆる生き物たちの種も、時と場所も超えた世界、ことばが生まれる前の、はるか昔、私たちがそこからやってきた、なつかしい世界への旅。(「スズキコージ 大千世界の魔法画家」より)

「『たいようオルガン』のサイン会のとき、小学三年生くらいの男の子が絵本を指さして、「下書きの線は消した方がいいよ」と言ったという。それを聞いて、心のなかで喝采をあげたという荒井良二。それは察するに、作家のなかの子どもがついに現実の子どもに勝った(?)ことを、ほかならぬ現役の子どもに認められたということか。たしかに、「子どもが描いた絵」と「子どもが描いたようにみえる絵」はよく似ている。だが、あえてそのふたつを比べてみるならば、子どもの絵は、無意識そのものであるがゆえに美しい。そして、「子どもが描いたような絵」は、大人のなかのアートの衝動がひとつになっているからこそ美しい。(中略)「宿敵は大人の自分」と言い、「かつて自分も子どものころに持っていた、絵を描く前の、気持ちの高まりのようなもの」「子どもの衝動」をもって描きたいとう画家。「自分がよろこぶもの、自分にとって新しいと思うものを描く」という荒井良二にとっても、内なる子どもこそは生命の源泉であるにちがいない。(「荒井良二 日常の旅人」より)

「山羊のいのち。人間のいのち。地球のいのち。食べ物のいのち・・・・。これまでもさまざまな「いのち」の物語を描いてきた沢田としきの絵本のなかでも、『ピリカ、おかあさんへの旅』は、もっともドラマティックな作品である。主人公はピリカという一匹のサケの女の子。川で生まれたサケが海に下って大きくなり、ふたたび生まれた川に遡上して産卵したのち一生を終えて死ぬというサケの一生が、ピリカのまなざしで描かれていく。海で暮らしていた彼女が、あるとき自分が生まれたばかりの時のことを夢に見て「おかあさん」の存在を思い出し、やがて遠いどこかからきこえてくる「よびごえ」にむかって泳ぎだす。群れをなして進んでいくピリカたちに迫る、さまざまな危険。恐怖とのたたかい。そして海の果てにようやくたどりついた「なつかしい匂いのする水」。そこからさらにはじまる、とほうもない旅。(中略)ページをめくりながら、ピリカとともに私たちは水のなかを旅する。川から海へ、そしてまた川へ。それは地球をめぐる生命の神秘を体感することにもひとしい。(「沢田としき リアルであること」より)

★沢田としきは2010年4月27日、一年に及ぶきびしい闘病を終えて、さらに大きな生命のふところ、「とほうもない旅」へと旅立って行きました。亡くなるふつか前に病院に見舞ったとき寺村さんの『絵本の子どもたち』がベッドから見える棚に置いてあるのが眼にはいりました。沢田としきにとっては嬉しい手向けの一冊になったのだろうと思います。

「内なる呼び声につき動かされるまま、ひたすら手を動かすという、その過程こそが重要であり必要であったかのような「内奥への旅」、無意識の世界への冒険。まるで、その行為をとおして、主観から客観へとひらかれていくシュルレアリスムの「オートマティスム」を思わせる体験。木葉井悦子が心を寄せていたという、唯識系仏教の仏典では阿羅耶識と呼ばれる、無意識の底の底、みずからの<内的宇宙>ともいうべき底知れぬひろがり。動物と植物と鉱物の差異も、生と死の境界ももはや存在しない、もうひとつの宇宙。そのようなひろがりにむかって、木葉井悦子ははてしない旅をつづけた。
 この危険と魅惑にみちた旅から帰ってきたとき、あたかも宇宙の胎内をくぐりぬけたかのように、画家のからだのなかから、何かがポンと飛び出したのかもしれない。彼女自身の宇宙から生まれた卵のようなものが。(「木葉井悦子 生命の祝祭」より)

★木葉井さんが病に倒れ入院しているときのこと、病院から電話がかかり、「ねえ、絵の道具、少しでいいから揃えて持って来てくれない?」と頼まれました。
画材店で岩絵の具やスケッチブック、絵筆などを揃えて埼玉・戸田の病室まで持って行きました。手術のあとの再入院でずいぶん痩せておられましたが、「絵の具がないとさびしくてね」と言いながらベッドの上に画材を並べてじっと眺めていました。その場で何かを描いたわけではありませんが、かなり長いあいだ画材を手にしたりじっと眺めたりしておりました。そのうち、「もう夕方ね、遅くなるから帰っていいわよ、私はもう少し絵の具を見ていたいの・・・」と言って僕を送ってくれました。それが木葉井さんとのお別れになってしまいましたが、最後にベッドの上の画材をじっと見ているだけで慰められているかのような木葉井さんに深く感動したのを覚えています。
寺村さんが書いているとおり、「内なる呼び声につき動かされるまま、ひたすら手を動かすという、その過程こそが重要であり必要であった」のだと思います。

さて、長くなりましたがあとはぜひ実際に手にとってお読みください。絵本というジャンルがいかに深い魅力に富んでいるかおわかりいただけると思います。
そして、ワタクシこと南椌椌に対してもすこしは敬意の感情というものを持っていただけるのでないでしょうか?(現実はそんなに甘くない?はっ、そうでした、がんばります)

この『絵本の子どもたち』全体を通して言えることは、寺村さんの瑞々しい詩的な感受性によって絵本というジャンルがこれまでなかったような新しい光に照らし出されたということだと思います。
# by kuukuu_minami | 2010-05-16 22:55
ソウルで個展だよ!
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かれこれ6年ぶりにソウルで個展です。

5月19日から28日まで
仁寺洞(インサドン)のクラフト・アウォンというスペースです。
地下鉄・安国(アングッ)駅から仁寺洞に入ってちょっと
金属工芸とアクセサリーの阿園工房(アウォンコンバン)の向かいの2階

といっても誰もわかりませんよね

ソウルで一番の仲良し姉妹がやっている
オシャレな会場です

今回はいつものガラス絵とテラコッタのほかに
写真のように
けっこうシブイ陶器の酒器セットも展示します

これで日本酒呑むといけます、ホント!

そのうち東京でもやりますんで
どうぞよろしう!

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남상길 작은 개인전 2010년 5월19일(수)-28일(금) 11:00-19:00
인사동 크라프트 아원(쌈지길 맞은편 건물2층) Tel. 02-738-3482

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# by kuukuu_minami | 2010-05-15 12:51
荒井良二はすごい!

4月6日、もとKuuKuu→みな李の
荒井良二さんの壁画消しライブペインティングを
企画しました、というよりクラムボンの原田郁子ちゃんと相談して
荒井さんにお願いしました
というのは、元KuuKuu→みな李のあとに原田郁子ちゃんと妹さんの奈奈ちゃんが
中心になってお店を展開することになったからです。

12月末で閉店した「みな李」のあとに入ることになった
郁子ちゃんたちとお店のことで相談に乗っておりました

これまでの空間をかなり大胆に変えるというプランで
新しい店を構想するなかで
壁画のあった壁を白に戻してドアや窓をつけることになりました

17年前に荒井さんに描いていただき
いまもまったく色あせていない壁画を
白に戻すという大胆かつ残酷なプランは
荒井さん自身にやっていただく他はないと思い
ドキドキしながら荒井さんにお願いしたのです

「あ、いいよいいよ、やるよやるよ・・・」といつものように
言葉をふたつ重ねて荒井さんは了承してくれました

こうして17年の歴史のある素晴らしい壁画を
荒井さん自身に消してもらうことになりました

当日は他の店舗のこともあり
一般の方に告知することはできませんでしたが
もとKuuKuuのスタッフやその子どもたち
編集者や親しい作家仲間など50人くらいが
上から下から見守っておりました

荒井さんはほとんど手だけで
すばらしい速度で、消して残すペインティングをしてくれました
写真で見ていただけるように
白い空間に沢山の家のような船のようなものが浮かび
ほとばしるような色と線がすべてを結び会わせ
ダイナミックで繊細なもうひとつの荒井良二の世界が現出しました

それは過去と未来がまざりあって
あたらしい自由の場所に向かう船上の出来事のようでした

さらに素晴らしかったのは
ハナレグミのタカシ君とクラムボンの原田郁子ちゃんが
(なぜか・・・)
荒井さんの動きにあわせるように
ずっと歌い続けてくれたことです

空前のライブペインティングと言ってもよいくらい
想像をはるかに超えたパフォーマンスでした
立ち会ったすべての人がすごくいい顔して見守っていましたよ

ごく限られた方々しか立ち会っていただけなかったのは残念ですが
ムービーで記録もしましたので
いつかどこかで見ていただける機会があるかも知れません

たったいま吉祥寺に駆けつければ
荒井さんの新しい壁画は見ることができると思いますが
工事の過程で遠からず
本当に消えて白い壁に隠れることになっています

新しい店がオープンの運びとなりましたら
また荒井さんのライブなどもできるかも知れません
(僕の店ではないのではっきりしたことは言えませんが・・・・)

1993年にKuuKuuの壁画として生まれた
荒井さんの傑作をみずから消すという
本来とてもさびしい行為を
このように明るく輝くものにしてくれた荒井さん
感謝のことばもないのですが、やはり・・・

どうもどうも
ありがとうありがとう!

写真上ははじまる前の荒井さんのあいさつの場面
はじめから笑わせてくれ、みんながリラックスできました

中の写真はいよいよ終わりに近づきました。

下の写真は消して描いてまた現れた壁画の前で
荒井さんと郁子ちゃんとKuuKuuのスタッフだったしおりちゃんのこどもの和楽
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# by kuukuu_minami | 2010-04-16 01:44
ネパール、インドの旅

2月11日から3月4日まで
ネパール、インドと旅してきました

この日記で何度も書かせてもらった
チベット難民のこどものドキュメンタリー映画の取材でした

成田からひとりでインドのデリーに飛び
12時間のトランジット予定が23時間に延びるという
インド式洗礼を受けつつも楽しみいっぱいのはじまり

デリーからはじめてのネパール・カトマンズに着いて
インドの雰囲気とはまるで違う
ゆったりまったりした感じにまずほっとする

デリーからの飛行機の到着が10時間も延びたのに
朝から10時間も待っててくれた
安ホテルの主人の出迎えを受けて
サンライズコテッジヘ

カトマンズは無茶な排気ガスを除けば
すこぶる居心地の良い町だと思いました
廃墟のような市街がなぜか
人類の未来の町のように感じられ
こんな風に滅んでゆくのもオツなもんじゃないか

この町の叔父さんのところに
インド・ダラムサラのTCV(tibetan childrens village)
という寄宿制の学校から冬休みを利用して
来ている映画の主人公になる少年と再会し

カナダ・トロントからこの映画の通訳・コーディネーターとして
ネパール入りしていたチベット人のTと合流
難民ゆえにパスポートを持たない少年を
三日かけて陸路でインド・ダラムサラまで引率するという
願ってもないミッションを遂行!するのです

少年の名はオロ!
中国・チベット本土に住む母親と家族の身の安全のために
本名ではなく、少年の幼い時の通名を使うことにしました

カトマンズから車で7時間ほどで
8000メートル級のヒマラヤを望むポカラに到着
たまたま泊まることになった小さなホテルの日本語を話す主人と
東京の話などしているうちに
吉祥寺のネパール料理を出すサジロカフェを知ってるかと尋ねると
「知ってるよ、友だちがやってる店だよ」という返事
サジロカフェ&シバカフェのイケメン主人・ニールは同じ吉祥寺仲間で
何度も会ってるいい男です
へえ!うれしいなあ、とお互いびっくり嬉しの抱擁

(実はさっきまでシバカフェに行っていてニールにポカラの写真を見せながら
ネパール談義に花を咲かせていたのです・・・・
サジロ&シバの両カフェは最高の雰囲気ですよ!)

ポカラからはインド国境の町スノウリまで
やはり車で7時間くらい
国境の町スノウリと言っても
ネパール人、インド人、チベット人は
ほとんどど何のチェックもなしに素通り
それ以外の外国人だけ徒歩で国境を渡りながら
ふたつの国の イミグレでパスポートにポンとスタンプを押してもらうだけ
それも普段着まるだしのひげ面のおっちゃんが
ほこりだらけの街頭で面倒くさそうにやってるだけ

んはははっは!ますます楽しい旅の道中であり・・・・

なんかまたしつこく長くなりそうな気配がしてきましたので
ずっとハショリます

長時間の車の旅と、インドに入ってからの
お定まりの遅延とノーアナウンスで待たされるホームでの待機
ちょっと寒かったけど、オロとTとの密で蜜な時間は替えがたく楽しいもんであり

さてさて、やっと到着した列車はなんかキタネー!なあ・・・
Tは16時間くらい乗るんじゃない?って言ってたのに
ほぼ24時間のゴキブリ寝台列車がこれまた愉快!(ホンマかいな)
そんなこんなでジャランダという辺鄙な鉄道駅に着いたのが真夜中の1時ころ
眠りこけているタクシー乗り場のおっちゃんを起こして、さらに4時間ほど走って
チベット難民の拠点になっている北インド・ダラムサラに着いたのが
2月20日の早朝のこと
ホテル入り口で眠っているカシミール人の男を起こして
やっとベッドにありつきました

もうすでにこの頃には
ワタクシとオロ!はすっかり仲良しになり
ホテルや寝台車でもしっかり抱き合って眠るほどに・・・

さて、ダラムサラでは
成田から直行で先着していた
監督の岩佐さんとカメラマンの津村さんと合流

いよいよ、映画の撮影がはじまるのです・・・

それから2週間、ほぼ休みなく撮影は続き
オロ!が可愛いだけのチベタンではなく
とんでもないやんちゃでしかも頭のいい子だとわかり
時には翻弄されもしながら濃密な時を過ごして
3月2日、監督たちよりひと足先に
帰国の途についたというわけです

映画の現場に立ち会ったのは初めてでしたが
想像していたよりもずっとわかりやすくシンプルに
ことが運ぶので、まったく戸惑いもなく入り込めました

ただ、現場では練達の監督とカメラマンの仕事なので
年齢だけは練達?のワタクシの出番は少なく
オロ!の子守役がおもな役どころ・・・
いや、実は自分もものつくりの人間なので
「ああ、オレならこうするなあ・・・」と思うことがしばしばで
その思いをストレートにぶつけちゃあ、なんか角が立つしなあ
とそこは控えめに、しかし笑いだけは大盛で提供することを
心がけてまいりました・・・・

やっぱ、表現はお山の大将でやらなきゃね。

今後のことはまだ未知数でありますが
撮影は少なくともあと2回のロケを経て来年の春には
とりあえずクランクアップから編集作業に入ることと思います

詳しいことは順次ご報告させていただきます。

写真は3点ともオロ!かわいい!!
上はポカラのレストランでひょうきん族やってるオロ!
中はインドの夜行列車のなかで何を思うのか、オロ!
下はニューヨークで「日比の食堂」という日本レストランを
経営しているもんたどんから新年に送ってもらった
エコバッグを持ってわざとらしい顔をしているダラムサラのオロ!
後方は岩佐監督。
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# by kuukuu_minami | 2010-03-08 12:14
うまやはし日記
9月22日、浅草・厩橋の近く
「アノニマスタジオ」にもとまめ蔵・KuuKuuのスタッフ
リーダーこと高橋香織の作品展を見にに行った。

アノニマスタジオ刊の高山なおみの『日々ごはん』の最新刊の表紙を
リーダーが担当したことで開かれている記念展。
スタジオでは臨時のカフェがオープン。KuuKuu仲間のエバのいつもの絶品ジャムだけでなくガレット屋さん、それにおともだちのパン屋さんと焼き菓子屋さんもで大層おいしいカフェでありました。
エバのガレット+桃ジャムはいままで食べたガレットのなかで最高の味でした!
といっても、生まれて2回しかガレット(蕎麦クレープ)は食べたことがないのですが・・・。
絶対あれ以上うまいガレットなんかあるはずがない!

リーダーの絵や手作りバッグも格段にいい味を出すようになっていて、やはり社会で仕事をすることの意味があるなあ、とアノニマさんに人ごとながら感謝。

さて、厩橋といえば思い出す一冊の本があり
久しぶりに本棚から取り出して鞄のなかに潜ませて出かけたのが
詩人・吉岡実の『うまやはし日記』

吉岡実は学生時代からいままで最もよく読んできた現代詩人。
1919年に東京本所に生まれ1990年没。
生地が本所とあるが住まいは厩橋の近くだったらしい。

『うまやはし日記』は1938年から40年にかけて、若き詩人が徴兵検査を経て出征する頃までの日記。本格的な戦争までは若干時間のある日本の妙な気分と文学に生きたい若者のその日その日の小さな足跡が記されている。

友人や縁者のこと、その日読んだ本のことが中心なのだが、何度か読んでいるはずなのに虚飾ない簡潔な文章が常に新鮮で、後の詩人の姿を彷彿とさせる潔さです。

1921年には厩橋のすぐ先、吾妻橋付近で僕の母が生まれているので
『うまやはし日記』に出てくる当時の浅草界隈の映画館やカフェの様子などに
幼い母の面影を見たりして妙になつかしい気分に浸れもするのです。

短い日記の中からすこし引用。

昭和13年(1938年)8月31日
 貯金帳(八十円)と退店手当(三十円)を貰う。五年間の小僧生活の哀しさ、懐かしさ。店の連中と別れの挨拶。英子は「さようなら」の一言。葉子は「本当は好きだった」の謎めいた言葉。後輩二人と本郷三丁目の青木堂で珈琲をのむ。皆に見送られ雨の中を、自動車に乗った。夕方、厩橋の家に着く。荷物が本ばかりなので、母は呆れた。

昭和14年某月某日
 夕方より仮検査で本所区役所へ行く。高等省小学校のクラスメート山野辺、土切、中山、味方らがいる。初めは眼の検査だった。「眼がすんだ人は道具をすぐだせるようにしときなさい」の声に、どっと笑いがひびく。「チンポコを握られるなんていやだなあ」。みんな無事通過す。蔵前通りの南屋でコーヒーをのみ、談笑して別れた。

3月28日
 パニョル『トパーズ』、芥川龍之介の短編の再読。『ドミニック』読みはじめる。母に女の子の名前を考えてくれと言われる。みなみ 敦子 葉子 伊勢など。

4月3日
 雨。朝から本郷座へ行く。「望郷」のジャン・ギャバンは素晴らしい。となりの女学生も泣いていた。外は寒くふるえた。南山堂へは寄らず、赤門まで散歩。夜、ジイド『コンゴー紀行』を読む。一時間ほど習字。

4月21日
 洗濯。久しぶりでひっぱり出し、「新短歌」に目をとおす。あとは『月下の一群』。夜、家に行くと、母が茹卵をくれた。茹卵を食べると、不思議に桜の花が浮んでくる。

8月23日
 夕四時ごろ、支那そば屋の慶ちゃんの家にゆき、連れ出して浅草から上野へ出る。不忍の池でボート遊び。白や桃の蕾が大きな葉の中に見える。湯島天神下を通り、古本屋で『白秋小唄集』を求める。広小路の水戸屋でソーダ水や蜜豆を食べた。慶ちゃんのおごり。田原町で別れた。堀辰雄『聖家族』(江川版)が届いていた。

10月29日 
 暁の四時、空襲警報で起こされる。月が皓々と薄雲を透かしている。先生不在。南明座へ「たそがれの維納」を見に出かける。帰りの電車の中で警報を聞く。

書き写してるとキリがありません。
戦前の二冊の日記が焼失を逃れ、この『うまやはし日記』にまとめられたのは吉岡実の亡くなった年のこと。

22日のことをを吉岡さん風にまとめたら
9月22日
 厩橋のアノニマスタジオへ香織の展示会を見に行く。エバのガレットを食べる。なっちゃんも来たので少しおしゃべり。ひとりで吾妻橋から伝法院、花やしきあたりを歩き、立ち並ぶ屋台飲み屋で生ビールに煮込み、冷や奴。母の実家の墓がある寺の脇を通り田原町へ。地下鉄で神田に出て中央線に乗り換え吉祥寺。きょうの締めは中清の粗挽き蕎麦と日本酒で・・・だが、その前にまめ蔵に寄ってみると厨房シンクの配水管からの水漏れが外まであふれてていて、酔いも冷める。西友に行ってインスタントセメントを求め、水が外に出ないように工夫する。作業の終わりは12時を過ぎて粗挽き蕎麦も日本酒もおじゃん。スタッフも遅くまでお疲れさまでした。吉岡実の『うまやはし日記」を読み続ける。

こんな感じかな。
ちなみに吉岡実さんとは渋谷の百軒店の喫茶店で一度だけ会ったことがあった。あるダンス専門誌の舞踏特集の編集を頼まれ、吉岡さんに原稿のことで相談に乗っていただいたのだ。吉岡さんは土方巽、大野一雄、笠井叡ら舞踏草創期の異才たちの佳き理解者だったのだ。
お会いしたときは、まめ蔵をはじめて間もない頃、僕は絵を描き始めたばかりで、毎日新聞社主催の日本国際美術展に入選したという話をしたら「そうか、入ったか!」と嬉しそうに言ってくれた。当時の絵はいまとは似ても似つかない抽象表現主義風のリトグラフ、現代美術なら基礎もいらんからなあ、と思ってはじめたわけです。

その後すぐ、吉岡さんがまめ蔵の前をひょっと覗きながらゆっくり通り過ぎたのを厨房でカレーを作りながら見つけたのだが、オーダーが溜まっていてすぐに追いかけることができなかった。あんな路地を偶然通ることなどあり得ないから探してくれたのだろう・・・。その後会う機会を逸し、吉岡さんは1990年に亡くなってしまった。大いに悔やまれるのでありました。

『うまやはし日記」は書肆山田1990年刊
エバの日記はジャム作りが中心だけど写真も文章もセンスがいいよ。
http://blogs.dion.ne.jp/evajam/archives/8774261.html
# by kuukuu_minami | 2009-09-27 13:46